《す》いたところへ行って腰掛けた。三吉と反対の側に乗ったが、連があるのと、客を隔てたのとで、互に言葉も替《かわ》さなかった。二人は黙って乗った。
大島先生は、一夏三吉が苦しんだ熱い思を、幾夏も経験したような人であった。細君に死別れてから、先生は悲しい噂《うわさ》ばかり世に伝えられるように成った。改革者のような熱烈な口調で、かつて先生が慷慨《こうがい》したり痛嘆したりした声は、皆な逆に先生の方へ戻って行った。正義、愛、美しい思想――そういう先生の考えたことや言ったことは、残らず葬られた。正義も夢、愛も夢、美しい思想も夢の如《ごと》くであった。唯《ただ》、先生には変節の名のみが残った。昔親切によく世話をして遣《や》った多くの後輩の前にも、先生は黙って首を垂れて、「鞭韃《むちう》て」と言わないばかりの眼付をする人に成った。旧《ふる》い友達は大抵先生を捨てた。先生も旧い友達を捨てた。
以前に比べると、大島先生はずっと肥った。服装《みなり》なども立派に成った。しかし以前の貧乏な時代よりは、今日の方が幸福《しあわせ》であるとは、先生の可傷《いたま》しい眼付が言わなかった。
この縁故の深い、旧時《むかし》恋しい人の前に、三吉は考え沈んで、頭脳《あたま》の痛くなるような電車の響を聞いていた。先生の書いたもので思出す深夜の犬の鳴声――こんな突然《だしぬけ》に起って来る記憶が、懐旧の情に混って、先生のことともつかず、自分のことともつかず、丁度電車の窓から見える人家の窓や柳の葉のように、三吉の胸に映ったり消えたりした。
そのうちに、三吉は大島先生の側へ行って腰掛けることが出来た。先生は重い体躯《からだ》を三吉の方へ向けて、手を執《と》らないばかりの可懐《なつか》しそうな姿勢を示したが、昔のようには語ろうとして語られなかった。
「オオ、鍛冶橋《かじばし》に来た」
と先生はあわただしく起立《たちあが》って、窓から外の方の市街を見た。
「もう御降りに成るんですか」と三吉も起上った。
「小泉君、ここで失敬します」
という言葉を残して置いて、大島先生は電車から降りた。
「吾儕《われわれ》に媒酌人《なこうど》をしてくれた先生だったけナア」
こう思って、三吉が見送った時は、酒の香にすべての悲哀《かなしみ》を忘れようとするような寂しい、孤独な人が連の紳士と一緒に柳の残っている橋の畔《たもと》を歩いていた。
電車は通り過ぎた。
「小泉さんはおいでですか」
三吉は森彦の旅舎《やどや》へ行って訪ねた。そこでは内儀《おかみ》さんが変って、女中をしていた婦人が丸髷《まるまげ》に結って顔を出した。
電話口に居た森彦は、弟の三吉と聞いて、二階へ案内させた。部屋にはお俊も来合せていた。森彦は電話の用を済まして、別の楼梯《はしごだん》から上って来た。
三吉はお俊と不思議な顔を合せた。殊《こと》に厳格な兄の前では、いかにも姪《めい》の女らしい黙って視ているような様子がツラかった。彼は、夏中手伝いに来ていて貰った時のような、親しい、楽々とした気分で、この娘と対《むか》い合うことが出来なかった。何となく堅くなった。
「森彦叔父さん、私は学校の帰りですから」とお俊が催促するように言った。
「そうかい。じゃ着物は宜しく頼みます。母親《おっか》さんにそう言って、可いように仕立てて貰っておくれ」
旅舎生活《やどやずまい》する森彦は着物の始末をお俊の家へ頼んだ。お俊は長い袴《はかま》の紐《ひも》を結び直して、二人の叔父に別れて行った。
漸《ようや》く三吉は平常《いつも》の調子に返って、一日家を探し歩いたことを兄に話した。直樹《なおき》が家の附近は、三吉も少年時代から青年時代へかけての記憶のあるところで、同じ町中を択《えら》ぶとすれば、なるべく親戚や知人にも近く住みたい。それには、旧時《もと》直樹の家に出入した人の世話で、一軒二階建の家を見つけて来た。こんな話をした。
「時に、延もお愛ちゃんの学校へ通わせることにしました」と三吉が言った。「その方があの娘《こ》の為めにも好さそうです」
森彦は自分の娘が兄の娘に負けるようでは口惜《くや》しいという眼付をした。
「まあ、学校の方のことは、お前に任せる……俺の積りでは、延に語学をウンと遣らせて、外交官の細君に向くような娘を造りたいと思っていた。行く行くは洋行でもさせたい位の意気込だった……」
「娘の性質にもありますサ」
「俺の娘なら、もうすこし勇気が有りそうなものだ。存外ヤカなもんだ」
と森彦は田舎訛《いなかなまり》を交えて、自分の子が自分の自由に成らないに、歎息した。
「実さんの家でも越すそうじゃ有りませんか」
「そうだそうな。どうも兄貴にも困りものだよ。一応俺に相談すればあんな真似《まね》はさせやしなかった。その為に俺
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