裏面《うら》を見ちゃってよ――三吉叔父さんという人はよく解ってよ」こう骨を刳《えぐ》るような姪の眼の光を、三吉は忘れることが出来なかった。それを思う度《たび》に、人知れず彼は冷い汗を流した。彼は最早以前のように、苦痛なしに自分を考えられない人であった。同時に、他《ひと》をも考えられなく成って来た。家の生活で結び付けられた人々の、微妙な、陰影《かげ》の多い、言うに言われぬ深い関係――そういうものが重苦しく彼の胸を圧して来た――叔父姪、従兄妹《いとこ》同志、義理ある姉と弟、義理ある兄と妹…… 

        四

 三吉が家の横手にある養鶏所の側《わき》から、雑木林の間を通り抜けたところに、草地がある。緩慢《なだらか》な傾斜は浅い谷の方へ落ちて、草地を岡の上のように見せている。雑木林から続いた細道は、コンモリとした杉の木立の辺《ほとり》で尽きて、そこから坂に成った郊外の裏道が左右に連なっている。馬に乗った人なぞがその道を通りつつある。
 武蔵野《むさしの》の名残《なごり》を思わせるような、この静かな郊外の眺望の中にも、よく見れば驚くべき変化が起っていた。植木|畠《ばたけ》、野菜畠などはドシドシ潰《つぶ》されて了《しま》った。土は掘返された。新しい家屋が増《ふ》えるばかりだ。
 三吉はこの草地へ来て眺《なが》めた。日のあたった草の中では蟋蟀《こおろぎ》が鳴いていた。山から下りて来たばかりの頃には、お菊はまだ地方に居る積りで、「房ちゃん、御城址《ごじょうし》へ花|摘《と》りに行きましょう」などと言って、姉妹で手を引き合いながら、父と一緒に遊びに来たものだった。お繁は死に、お菊は死に、お房は死んだ。三吉は、何の為に妻子を連れてこの郊外へ引移って来たか。それを思わずにいられなかった。つくづく彼は努力の為《な》すなきを感じた。
 遠い空には綿のような雲が浮んだ。友人の牧野が住む山の方は、定めし最早《もう》秋らしく成ったろうと思わせた。三吉は眺め佇立《たたず》んで、更に長い仕事を始めようと思い立った。
 新宿の方角からは、電車の響が唸《うな》るように伝わって来る。丁度、彼が寂しい田舎《いなか》に居た頃、山の上を通る汽車の音を聞いたように、耳を※[#「※」は「奇+攴」、第3水準1−85−9、71−4]立《そばだ》てて町の電車の響を聞いた。山から郊外へ、郊外から町へ、何となく彼の心は響のする方へ動いた。それに、子供等の遊友達を見ると、思出すことばかり多くて、この静かな土地を離れたく成った。彼は町の方へ家を移そうと考えた。そのゴチャゴチャした響の中で、心を紛《まぎらわ》したり、新規な仕事の準備《したく》に取掛ったりしようと考えた。
 家を指して、雑木林《ぞうきばやし》の間を引返して行くと、門の内に家の図を引いている人がある。やはりこの郊外に住む風景画家だ。お雪は入口のところに居て、どの窓がどの方角にあるなどと話し聞かせていた。
 風景画家は洋服の袖隠《かくし》から磁石《じしゃく》を取出した。引いた図の方角をよく照らし合せて見て、ある家相を研究する人のことを三吉に話した。あまり子が死んで不思議だ、家相ということも聞いてみ給え、これから家を移すにしても方角の詮議《せんぎ》もしてみるが可《い》い、こう言って、猶《なお》この家の図は自分の方から送って置く、と親切な口調で話して行った。
「ああいう画を描く人でも、方角なぞを気にするかナア」
 と三吉は言ってみたが、しかし家の図までも引いて行ってくれる風景画家の志は難有《ありがた》く思った。
 お雪は夫の方を見て、
「貴方のように関《かま》わなくても困る。人の言うことも聞くもんですよ。山を発《た》つ時にも、日取が悪いから、一日延ばせというものを無理に発ったりなんかして、だからあんな不幸が有るなんて、後で近所の人に言われたりする……それはそうと、何だか私はこの家に居るのが厭《いや》に成った」
 こう言う妻の為にも、三吉は家を移そうと決心した。
 信心深い植木屋の人達は又、早く三吉の去ることを望んだ。何か、彼が禍《わざわい》を背負って、折角《せっかく》新築した家へケチを付けにでも来たように思っていた。それを聞くにつけても、三吉は早く去りたかった。


 外濠線《そとぼりせん》の電車は濠に向った方から九月の日をうけつつあった。客の中には立って窓の板戸を閉めた人もあった。その反対の側に腰掛けた三吉は、丁度家を探し歩いた帰りがけで、用達《ようたし》の都合でこの電車に乗合わせた。彼は森彦の旅舎《やどや》へも寄る積りであった。
 昇降《のりおり》する客に混って、二人の紳士がある停留場から乗った。
「小泉君」
 とその紳士の一人が声を掛けた。三吉は幾年振かで、思いがけなく大島先生に逢った。
 割合に込んだ日で、大島先生は空
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