。お雪と姪とは、互に明るく映る顔を見合せた。二人は手を引き合って歩いた。戻りがけに、町中を流れる暗い静かな水を見た。お雪は直樹の家に近く引移って来たことを思った。


 三吉は最早《もう》響の中に居た。朝の騒々しさが納まった頃は、電車の唸《うな》りだの、河蒸汽の笛だのが、特別に二階の部屋へ響いて来た。
「叔父さん、障子張りですか」
 と言いながら、正太が楼梯《はしごだん》を上って来た。正太は榊《さかき》と相前後して、兜町の方へ通うことに成った。
「相場師が今頃訪ねて来ても好いのかね」と三吉は笑って、張った障子を壁に立掛けた。
「いえ、私はまだ店へ入ったばかりで、お客さまの形です。今ネ、一寸場を覗《のぞ》いて、それから廻って来ました」
 正太は叔父の側で一服やって、袂《たもと》から細い打紐《うちひも》を取出した。叔父の家にある額の釣紐にもと思って、途中から買求めて来たのである。彼はこういうことに好く気がついた。
 壁には田舎屋敷の庭の画が掛けてあった。正太はその釣紐を取替えて、結び方も面白く掛直してみた。その画は、郊外に住む風景画家の筆で、三吉に取っては忘れ難い山の生活の記念であった。
 三吉は額を眺めて、旧いことまでも思出したように、
「Sさんもどうしているかナア」
 と風景画家の噂《うわさ》をした。正太はずっと以前、染物織物なぞに志して、その為に絵画を修《おさ》めようとしたことが有る位で、風景画家の仕事にも興味を持っていた。
「Sさんには、この節は稀《たま》にしか逢わない」と三吉は嘆息しながら、「何となく友達の遠く成ったのは、悲しいようなものだネ」
「オヤ、叔父さんはああして近く住んでいらしッたじゃ有りませんか」
「それがサ……この画をSさんが僕に描いてくれた時分は、お互に山の上に居て、他に話相手も少いしネ、毎日のようによく往来《いきき》しましたッけ。僕が田圃側《たんぼわき》なぞに転《ころ》がっていると、向の谷の方から三脚を持った人がニコニコして帰って来る――途次《みちみち》二人で画や風景の話なぞをして、それから僕がSさんの家へ寄ると、写生を出して見せてくれる、どうかすると夜遅くまでも話し込む――その家の庭先がこの画さ。あの時分は実に楽しかった……二度とああいう話は出来なく成って了った……」
「友達は多くそう成りますネ」
「何故《なぜ》そんな風に成って来たか――それが僕によく解らなかったんです。Sさんとは何事《なんに》も君、お互に感情を害したようなことが無いんだからネ。不思議でしょう。実は、此頃《こないだ》、ある友達の許《ところ》へ寄ったところが、『小泉君――Sさんが君のことをモルモットだと言っていましたぜ』こう言いますから、『モルモットとは何だい』と僕が聞いたら、大学の試験室へ行くと医者が注射をして、種々な試験をするでしょう。友達がモルモットで、僕が医者だそうだ――」
 正太は噴飯《ふきだ》した。
「まあ、聞給え。考えて見ると、成程《なるほど》Sさんの言うことが真実《ほんとう》だ。知らず知らず僕はその医者に成っていたんだネ。傍に立って、知ろう知ろうとして、観《み》ていられて見給え――好い心地《こころもち》はしないや。何となくSさんが遠く成ったのは、始めて僕に解って来た……」
 復た正太は笑った。
「しかし、正太さん、僕は唯――偶然に――そんな医者に成った訳でも無いんです。よく物を観よう、それで僕はもう一度この世の中を見直そうと掛ったんです。研究、研究でネ。これがそもそも他《ひと》を苦しめたり、自分でも苦しんだりする原因なんです……しかし、君、人間は一度|可恐《おそろ》しい目に逢着《でっくわ》してみ給え、いろいろなことを考えるように成るよ……子供が死んでから、僕は研究なんてことにもそう重きを置かなく成った……」
 明るい二階で、日あたりを描いた額の画の上に、日があたった。春蚕《はるご》の済んだ後で、刈取られた桑畠《くわばたけ》に新芽の出たさま、林檎《りんご》の影が庭にあるさまなど、玻璃《ガラス》越《ご》しに光った。お雪は階下《した》から上って来た。
「父さん、障子が張れましたネ」
「その額を御覧、正太さんがああいう風に掛けて下すった」
「真実《ほんと》に、正太さんはこういうことが御上手なんですねえ」
 とお雪は額の前に立って、それから縁側のところへ出てみた。
「叔母さん、御覧なさい」
 と正太も立って行って、何となく江戸の残った、古風な町々に続く家の屋根、狭い往来を通る人々の風俗などを、叔母に指してみせた。


 塩瀬というが正太の通う仲買店であった。その店に縁故の深い人の世話で、叔父の三吉にも身元保証の判を捺《つ》かせ、当分は見習かたがた外廻りの方をやっていた。正太に比べると、榊の方は店も大きく、世話する人も好く、とにかく
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