客分として扱われた。二人ともまだ馴染《なじみ》が少なかった。正太は店の大将にすらよく知られていなかった。毎日のように彼は下宿から通った。
 秋の蜻蛉《とんぼ》が盛んに町の空を飛んだ。塩瀬の店では一日の玉高《ぎょくだか》の計算を終った。後場《ごば》は疾《と》うに散《ひ》けた。幹部を始め、その他の店員はいずれも帰りを急ぎつつあった。電話口へ馳付《かけつ》けるもの、飲仲間を誘うもの、いろいろあった。正太は塩瀬の暖簾《のれん》を潜《くぐ》り抜けて、榊の待っている店の方へ行った。
 二人は三吉の家をさして出掛けた。大きな建築物《たてもの》のせせこましく並んだ町を折れ曲って電車を待つところへ歩いて行った。株の高低に激しく神経を刺激された人達が、二人の前を右に往き、左に往きした。電車で川の岸まで乗って、それから復た二人はぶらぶら歩いた。
 途中で、榊は立留って、
「成金が通るネ――護謨輪《ゴムわ》かなんかで」
 と言って見て、情婦の懐《ふところ》へと急ぎつつあるような、意気揚々とした車上の人を見送った。榊も正太も無言の侮辱を感じた。榊は齷齪《あくせく》と働いて得た報酬を一夕の歓楽に擲《なげう》とうと思った。
 橋を渡ると、青い香も失《う》せたような柳の葉が、石垣のところから垂下っている。細長い条《えだ》を通して、逆に溢《あふ》れ込む活々《いきいき》とした潮が見える。その辺まで行くと、三吉の家は近かった。
「榊君――小泉の叔父の近所にネ、そもそも洋食屋を始めたという家が有る。建物なぞは、古い小さなものサ。面白いと思うことは、僕の阿爺《おやじ》が昔|流行《はや》った猟虎《らっこ》の帽子を冠《かぶ》って、酒を飲みに来た頃から、その家は有るんだトサ。そこへ叔父を誘って行こうじゃないか……一夕昔を忍ぼうじゃないか」
「そんなケチ臭いことを言うナ。そりゃ、今日の吾儕《われわれ》の境涯では、一月の月給が一晩も騒げば消えて了うサ。それが、君、何だ。一攫千金《いっかくせんきん》を夢みる株屋じゃないか――今夜は僕が奢《おご》る」
 二人は歩きながら笑った。
 父の夢は子の胸に復活《いきかえ》った。「金釵《きんさ》」とか、「香影《こうえい》」とか、そういう漢詩に残った趣のある言葉が正太の胸を往来した。名高い歌妓《うたひめ》が黒繻子《くろじゅす》の襟《えり》を掛けて、素足で客を款待《もてな》したという父の若い時代を可懐《なつか》しく思った。しばらく彼は、樺太《からふと》で難儀したことや、青森の旅舎《やどや》で煩《わずら》ったことを忘れた。旧い屋根船の趣味なぞを想像して歩いた。


「お揃《そろ》いですか」
 と三吉は机を離れて、客を二階の部屋へ迎えた。
 兜町の方へ通うように成ってから、榊は始めて三吉と顔を合せた。榊も、正太もまだ何となく旧家の主人公らしかった。言葉|遣《づか》いなぞも、妙に丁寧に成ったり、書生流儀に成ったりした。
「叔母さん、おめずらしゅう御座いますネ」
 と正太は茶を持って上って来た叔母の髪に目をつけた。お雪は束髪を止《よ》して、下町風の丸髷にしていた。
 お雪が下りて行った後で、榊は三吉と正太の顔を見比べて、
「ねえ、橋本君、先《ま》ず吾儕《われわれ》の商売は、女で言うと丁度芸者のようなものだネ。御客|大明神《だいみょうじん》と崇《あが》め奉って、ペコペコ御辞儀をして、それでまあ玉《ぎょく》を付けて貰うんだ。そこへ行くと、先生は芸術家とか何とか言って、乙《おつ》に構えてもいられる……大した相違のものだネ」
 三吉は「復た始まった」という眼付をした。
「先生でなくても、君でも可いや――ねえ、小泉君、僕がこんな商売を始めたと言ったら、君なぞはどう思うか知らないが――」
「叔父さんなんぞは何とも思ってやしません」と正太が言った。
「榊が居ると思わないで、ここに幇間《たいこもち》が一人居ると思ってくれ給え――ねえ、橋本君、まあお互にそんなもんじゃないか」と言って、榊は急に正太の方に向いて、「どうだい、君、今日の相場は。僕は最早傍観していられなく成った。他《ひと》の儲けるところを、君、黙って観ていられるもんか」
「ドシンと来たねえ」
「どうだい、君、二人で大に行《や》ろうじゃないか」
 笛、太鼓の囃子《はやし》の音が起った。芝居の広告の幟《のぼり》が幾つとなく揃って、二階の欄《てすり》の外を通り過ぎた。話も通じないほどの騒ぎで、狭い往来からは口上言いの声が高く響き渡った。階下《した》では、種夫を背負《おぶ》った人が、見せに出るらしかった。親戚の娘達の賑かな笑声も聞えた。
 やがて、榊は三吉の方を見て、
「小泉君の前ですが、君は僕の家内にも逢って、覚えておられるでしょう。家内は今、郷里《くに》に居ます。時々家のことを書いた長い手紙を寄越《よこ》します。そ
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