れを読むと僕は涙が流れて、夜も碌《ろく》に眠られないことがあります……眠らずに考えます……しかし四日も経《た》つと、復た僕は忘れて了う……極く正直な話が、そうなんです。なにしろ僕なぞは、三十万の借財を親から譲られて、それを自分の代に六十万に増《ふや》しました……」
 正太も首を振って、感慨に堪《た》えないという風であった。思いついたように、懐中時計を取出して見て、
「叔父さん、今晩は榊さんが夕飯を差上げるそうです。何卒《どうか》御交際《おつきあい》下さいまし」
 と言って御辞儀をしたので、榊も話を一《ひ》ト切《きり》にした。
 その時親類の娘達がドヤドヤ楼梯《はしごだん》を上って来た。
「兄さん、左様なら」とお愛が手をついて挨拶《あいさつ》した。
「お愛ちゃん、学校の方の届は?」と三吉が聞いた。
「今、姉さんに書いて頂きました」
「叔父さん、私も失礼します」とお俊はすこし改まった調子で言って、正太や榊にも御辞儀をした。
「左様なら」とお鶴も姉の後に居て言った。
 この娘達を送りながら、三吉は客と一緒に階下《した》へ降りた。彼は正太に向って、今度引移った実の家の方へ、お延を預ける都合に成ったことなぞを話した。
 階下《した》の部屋は一時《ひととき》混雑《ごたごた》した。親類の娘達の中でも、お愛の優美な服装が殊《こと》に目立った。お俊は自分の筆で画いた秋草模様の帯を〆《しめ》ていた。彼女は長いこと使い慣れた箪笥が、叔父の家の方に来ているのを見て、ナサケナイという眼付をした。順に娘達はお雪に挨拶して出た。つづいて、三吉も出た。門の前には正太や榊が待っていた。未だ日の暮れないうちから、軒燈《ガス》を点《つ》ける人が往来を馳《か》け歩いた。町はチラチラ光って来た。


 水は障子の外を緩《ゆる》く流れていた。榊、正太の二人は電燈の飾りつけてある部屋へ三吉を案内した。叔父の家へ寄る前に、正太が橋の畔《たもと》で見た青い潮は、耳に近くヒタヒタと喃語《つぶや》くように聞えて来た。
 榊は障子を明け払って、
「橋本君、こういうところへ来て楽めるというのも、やはり……」
「金!金!」
 と正太は榊が皆な言わないうちに、言った。榊は正太の肩をつかまえて、二度も三度も揺《ゆす》った。「然《しか》り、然り」という意味を通わせたのである。
 三吉が立って水を眺めているうちに、女中が膳《ぜん》を運んで来た。一番いける口の榊は、種々な意味で祝盃《しゅくはい》を挙げ始めた。
「姉さんにも一つ進《あ》げましょう」と榊は女中へ盃を差した。「どうです、僕等はこれで何商売と見えます?」
 女中は盃を置いて、客の様子を見比べた。
「私は何と見えます?」と正太が返事を待兼ねるように言った。
「さあ、御見受申したところ……袋物でも御|商《あきな》いに成りましょうか」
「オヤオヤ、未だ素人《しろうと》としか見られないか」と正太は頭を掻《か》いた。
 榊も噴飯《ふきだ》した。「姉さん、この二人は株屋に成りたてなんです。まだ成りたてのホヤホヤなんです」
「あれ、兜町の方でいらッしゃいましたか。あちらの方は、よく姐《ねえ》さん方が大騒ぎを成さいます」
 こう女中は愛想よく答えたが、よくある客の戯れという風に取ったらしかった。女中は半信半疑の眼付をして意味もなく、軽く笑った。
 知らない顔の客のことで、口を掛ければ直ぐに飛んで来るような、中年増《ちゅうどしま》の妓《おんな》が傍へ来て、先ず酒の興を助けた。庭を隔てて明るく映る障子の方では、放肆《ほしいまま》な笑声が起る。盛んな三味線の音は水に響いて楽しそうに聞える。全盛を極める人があるらしい。何時《いつ》の間にか、榊や正太は腰の低い「幇間《たいこもち》」で無かった。意気|昂然《こうぜん》とした客であった。
「向うの座敷じゃ、大《おおい》にモテるネ」
 と榊は正太に言った。ここにも二人は言うに言われぬ侮辱を感じた。それに、扱いかねている女中の様子と、馴染の無い客に対する妓の冷淡とが、何となく二人の矜持《ほこり》を傷《きずつ》けた。殊に、榊は不愉快な眼付をして、楽しい酒の香を嗅《か》いだ。
「貴方《あなた》一つ頂かして下さいな」
 とその中年増が、自信の無い眼付をして、盃を所望した。世に後《おく》れても、それを知らずにいるような人で、座敷を締める力も無かった。
 そのうちに、今一人若い妓《おんな》が興を助けに来た。歌が始まった。
「姐さん、一つ二上《にあが》りを行こう」
 と言って、正太は父によく似た清《すず》しい、錆《さび》の加わった声で歌い出した。
「好い声だねえ。橋本君の唄《うた》は始めてだ」と榊が言った。
「叔父さんの前で、私が歌ったのも今夜始めてですね」と正太は三吉の方を見て微笑《ほほえ》んだ。
「小泉君の酔ったところを見たこと
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