が無い――一つ酔わせなけりゃ不可《いけない》」と榊が盃を差した。
「すこし御酔いなさいよ。貴方」と中年増の妓が銚子《ちょうし》を持添えて勧めた。
 三吉は酒が発したと見えて、顔を紅くしていた。それでいながら、妙に醒《さ》めていた。彼は酔おうとして、いくら盃を重ねてみても、どうしても酔えなかった。
 唯《ただ》、夕飯の馳走《ちそう》にでも成るように、心易《こころやす》い人達を相手にして、談《はな》したり笑ったりした。
「是方《こちら》は召上らないのね」
 と若い妓が中年増に言った。
 夜が更《ふ》けるにつれて、座敷は崩《くず》れるばかりであった。「何か伺いましょう」とか、「心意気をお聞かせなさいな」とか、中年増は客に対《むか》って、ノベツに催促した。若い方の妓は、懐中《ふところ》から小さな鏡を取出して、客の見ている前で顔中|拭《ふ》き廻した。
 榊は大分酔った。若い方が御辞儀をして帰りかける頃は、榊は見るもの聞くもの面白くないという風で、面《ま》のあたりその妓を罵《ののし》った。そして、貰って帰って行った後で、腐った肉にとまる蠅のように言って笑った。折角《せっかく》楽みに来ても、楽めないでいるような客の前には、中年の女が手持無沙汰《てもちぶさた》に銚子を振って見て、恐れたり震えたりした。
 酒も冷く成った。
 ボーンという音が夜の水に響いて聞えた。仮色《こわいろ》を船で流して来た。榊は正太の膝を枕にして、互に手を執《と》りながら、訴えるような男や女の作り声を聞いた。三吉も横に成った。
 三人がこの部屋を離れた頃は、遅かった。屋外《そと》へ出て、正太は独語《ひとりごと》のように、遣瀬《やるせ》ない心を自分で言い慰めた。
「今に、ウンと一つ遊んで見せるぞ」
「小泉君、君は帰るのかい……野暮臭い人間だナア」
 と榊は正太の手を引いて、三吉に別れて行った。


 三吉は森彦から手紙を受取った。森彦の書くことは、いつも簡短である。兄弟で実の家へ集まろう、実が今後の方針に就《つ》いて断然たる決心を促そう、と要領だけを世慣れた調子で認《したた》めて、猶《なお》、物のキマリをつけなければ、安心が出来ないかのように書いて寄《よこ》した。
 弟達は兄を思うばかりで無かった。度々《たびたび》の兄の失敗に懲りて、自分等をも護らなければ成らなかった。で、雨降揚句の日に、三吉も兄の家を指して出掛けた。
 沼のように湿気の多い町。沈滞した生活。溝《どぶ》は深く、道路《みち》は悪く、往来《ゆきき》の人は泥をこねて歩いた。それを通り越したところに、引込んだ閑静な町がある。門構えの家が続いている。その一つに実の家族が住んでいた。
「三吉叔父さんが被入《いら》しった」
 とお俊が待受顔に出て迎えた。お延も顔を出した。
「森彦さんは?」
「先刻《さっき》から来て待っていらしッてよ」
 とお俊は玄関のところで挨拶した。彼女は大略《おおよそ》その日の相談を想像して、心配らしい様子をしていた。
「鶴《つう》ちゃん、御友達の許《ところ》へ遊びに行ってらッしゃい」お俊は独《ひと》りで気を揉《も》んだ。
「そうだ、鶴ちゃんは遊びに行くが可い」
 とお倉も姉娘の後に附いて言った。「こういう時には、延ちゃんも気を利《き》かして、避けてくれれば可《い》いに」とお俊はそれを眼で言わせたが、お延にはどうして可いか解らなかった。この娘は、三吉叔父の方から移って間もないことで、唯マゴマゴしていた。
 実は部屋を片付けたり、茶の用意をしたりして、三吉の来るのを待っていた。三人の兄弟は、会議を開く前に、集って茶を嚥《の》んだ。その時実は起《た》って行って、戸棚《とだな》の中から古い箱を取出した。塵埃《ほこり》を払って、それを弟の前に置いた。
「これは三吉の方へ遣《や》って置こう」
 と保管を托《たく》するように言った。父の遺筆である。忠寛を記念するものは次第に散って了った。この古い箱一つ残った。
「どれ、話すことは早く話して了おう」と森彦が言出した。
 お俊は最早《もう》気が気でなかった。母は、と見ると、障子のところに身を寄せて、聞耳を立てている。従姉妹《いとこ》は長火鉢《ながひばち》の側に俯向《うつむ》いている。彼女は父や叔父達の集った部屋の隅《すみ》へ行って、自分の机に身を持たせ掛けた。後日のために、よく話を聞いて置こうと思った。
「そんなトロクサいことじゃ、ダチカン」と森彦が言った。「満洲行と定《き》めたら、直ぐに出掛ける位の勇気が無けりゃ」
「俺も身体は強壮《じょうぶ》だしナ」と実はそれを受けて、「家の仕末さえつけば、明日にも出掛けたいと思ってる」
「後はどうにでも成るサ。私《わし》も居《お》れば、三吉も居る」
「むう――引受けてくれるか――難有《ありがた》い。それをお前達が承知してくれさ
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