えすれば、俺は安心して発《た》てる」
 こういう大人同志の無造作な話は、お俊を驚かした。彼女は父の方を見た。父は細かく書いた勘定書を出して叔父達に示した。多年の間森彦の胸にあったことは、一時に口を衝《つ》いて出て来た。この叔父は「兄さん」という言葉を用いていなかった。「お前が」とか、「お前は」とか言った。そして、声を低くして、父の顔色が変るほど今日までの行為《おこない》を責めた。
 お俊はどう成って行くことかと思った。堪忍《かんにん》強い父は黙って森彦叔父の鞭韃《むち》を受けた。この叔父の癖で、言葉に力が入り過ぎるほど入った。それを聞いていると、お俊は反《かえ》って不幸な父を憐《あわれ》んだ。
「俊、先刻《さっき》の物をここへ出せや」
 と父に言われて、お俊はホッと息を吐《つ》いた。彼女は母を助けて、用意したものを奥の部屋の方へ運んだ。
「さあ、何物《なんに》もないが、昼飯をやっとくれ」と実は家長らしい調子に返った。
 三人の兄弟は一緒に食卓に就いた。口に出さないまでも、実にはそれが別離《わかれ》の食事である。箸《はし》を執ってから、森彦も悪い顔は見せなかった。
「むむ、これはナカナカ甘《うま》い」と森彦は吸物の出来を賞《ほ》めて、気忙《せわ》しなく吸った。
「さ、何卒《どうか》おかえなすって下さい」と、旧い小泉の家風を思わせるように、お倉は款待《もてな》した。
 皆な笑いながら食った。
 間もなく森彦、三吉の二人は兄の家を出た。半町ばかり泥濘《ぬかるみ》の中を歩いて行ったところで、森彦は弟を顧みて、
「あの位、俺が言ったら、兄貴もすこしはコタえたろう」
 と言ってみたが、その時は二人とも笑えなかった。実の家族と、病身な宗蔵とは、復た二人の肩に掛っていた。


「鶴ちゃん」
 とお俊は、叔父達の行った後で、探して歩いた。
「父さんが明日|御出発《おたち》なさるというのに……何処へ遊びに行ってるんだろうねえ……」
 と彼女は身を震わせながら言ってみた。一軒心当りの家へ寄って、そこで妹が友達と遊んで帰ったことを聞いた。急いで自分の家の方へ引返して行った。
 こんなに急に父の満洲行が来ようとは、お俊も思いがけなかった。家のものにそう委《くわ》しいことも聞かせず、快活らしく笑って、最早|旅仕度《たびじたく》にいそがしい父――狼狽《ろうばい》している母――未だ無邪気な妹――お俊は涙なしにこの家の内の光景《ありさま》を見ることが出来なかった。
 長い悲惨な留守居の後で、漸く父と一緒に成れたのは、実に昨日のことのように娘の心に思われていた。復た別れの日が来た。父を逐《お》うものは叔父達だ。頼りの無い家のものの手から、父を奪うのも、叔父達だ。この考えは、お俊の小さな胸に制《おさ》え難い口惜《くや》しさを起させた。可厭《いとわ》しい親戚の前に頭を下げて、母子《おやこ》の生命を托さなければ成らないか、と思う心は、一家の零落を哀しむ心に混って、涙を流させた。
 叔父達に反抗する心が起った。彼女は余程自分でシッカリしなければ成らないと思った。弱い、年をとった母のことを考えると、泣いてばかりいる場合では無いとも思った。その晩は母と二人で遅くまで起きて、不幸な父の為に旅の衣服などを調《ととの》えた。
「母親《おっか》さん、すこし寝ましょう――どうせ眠られもしますまいけれど」
 と言って、お俊は父の側に寝た。
 紅い、寂しい百日紅《さるすべり》の花は、未だお俊の眼にあった。彼女は暗い部屋の内に居ても、一夏を叔父の傍で送ったあの郊外の家を見ることが出来た。こんなに早く父に別れるとしたら何故父の傍に居なかったろう、何故叔父を遠くから眺めて置かなかったろう。
「可厭《いや》だ――可厭だ――」
 こう寝床の中で繰返して、それから復た種々な他の考えに移って行った。父も碌に眠らなかった。何度も寝返を打った。
 未だ夜の明けない中に、実は寝床《とこ》を離れた。つづいてお倉やお俊が起きた。
「母親さん、鶏が鳴いてるわねえ」
 と娘は母に言いながら、寝衣《ねまき》を着更《きが》えたり、帯を〆《しめ》たりした。
 赤い釣洋燈《つりランプ》の光はションボリと家の内を照していた。台所の方では火が燃えた。やがてお倉は焚落《たきおと》しを十能に取って、長火鉢の方へ運んだ。そのうちにお延やお鶴も起きて来た。
 小泉の家では、先代から仏を祭らなかった。「御霊様《みたまさま》」と称《とな》えて、神棚だけ飾ってあった。そこへ実は拝みに行った。父忠寛は未だその榊《さかき》の蔭に居て、子の遠い旅立を送るかのようにも見える、実は柏手《かしわで》を打って、先祖の霊に別離《わかれ》を告げた。
 お倉やお俊は主人の膳《ぜん》を長火鉢の側に用意した。暗い涙は母子《おやこ》の頬《ほお》を伝いつつあった。実は
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