いて見せるぞ」と彼の男らしい、どこか苦味《にがみ》を帯びた眼付が言った。彼は勃々《ぼつぼつ》とした心を制《おさ》えかねるという風に見えた。
 話の最中、三吉はこの甥《おい》の顔を眺めていると、
「あれ、兄さんがいけません」
 と鋭く呼ぶ姪の声を耳の底の方で聞くような気がした。
「丁度ここに同じような人間が二人揃《そろ》ったというものです」と榊は三吉と正太の顔を見比べた。「そう言っちゃ失敬ですが、橋本君だっても……御国の方で大きくやっていらしッたんでしょう……僕も、まあ、言って見れば、似たような境遇なんです」
 正太は良家に育った人らしい手で、膝の前垂を直して見た。
「ねえ、橋本君、そうじゃ有りませんか」と榊は言葉を継いで、「これから二人で手を携えて大に行《や》ろうじゃ有りませんか。僕もネ、今の水菓子屋なぞはホンの腰掛ですから、あの店は畳みます。いずれ家内は郷里の方へ帰します」
「多分、榊君の方が、私よりは先にある店へ入ることに成りましょう」と正太は叔父に話した。
 三島にある城のような家、三吉が寝た二階、入った風呂、上って見た土蔵、それから醤油を醸《かも》す大きな桶《おけ》が幾つも並んでいた深い倉――そういうものはどう成ったか。榊はそれを語ろうともしなかった。唯、前途を語った。やがて、若々しい、爽快《そうかい》な笑声を残して、正太と一緒に席を立った。
 玄関のところで、正太はお俊から帽子を受取りながら、
「延ちゃん、頭脳《あたま》の具合は?」
「ええ、もうスッカリ癒《なお》った」とお延は無邪気に笑った。
「お医者様が病気でも何でも無いッて、そう仰《おっしゃ》ったら、延ちゃんは薬を服《の》むのもキマリが悪く成ったなんて」とお俊は笑って、正太の方を見ずに、お延の方を見た。
「静かな田舎《いなか》から、こういう刺激の多い都会へ出て来るとネ」と正太も庭へ下りてから言った。
 叔父、甥、姪などの交換《とりかわ》した笑声は、客の耳にも睦《むつ》まじそうに聞えた。お延は自分が笑われたと思ったかして、袖で顔を隠した。お俊は着物の襟《えり》を堅く掻合《かきあわ》せていた。


 郊外の道路には百日紅《さるすべり》の花が落ちた。一夏の間、熱い寂しい思をさせた花が、表の農家の前には、すこし色の褪《さ》めたままで未だ咲いていた。実が住む町のあたりは祭の日に当ったので、お俊はお延を連れて、泊りがけに行く仕度をした。
「叔父さん、晩召上る物は用意して置きましたから」とお俊が言った。
「よし、よし、二人とも早くおいで。叔父さんが御留守居する――俺は独《ひと》りでノンキにやる」
 こう答えて、三吉はいくらかの小使を娘達にくれた。
 二人の姪は明日の七夕《たなばた》にあたることなどを言合って、互に祭の楽しさを想像しながら、出て行った。娘達を送出して置いて、三吉はぴッたり表の門を閉めた。掛金も掛けて了った。
 窓のところへ行くと、例の紅《あか》い花が日に萎《しお》れて見える。そのうちに三吉は窓の戸も閉めて了った。家の内は、寺院《おてら》にでも居るようにシンカンとして来た。
「これで、まあ、漸く清々《せいせい》した」
 と手を揉《も》みながら言ってみて、三吉は庭に向いた部屋の方へ行った。
 九月の近づいたことを思わせるような午後の光線は、壁に掛かった子供の額を寂しそうに見せた。そこには未だお房が居る。白い蒲団《ふとん》を掛けた病院の寝台《ねだい》の上に横に成って、大きな眼で父の方を見ている。三吉はその額の前に立った。光線の反射の具合で、玻璃《ガラス》を通して見える子供の写真の上には、三吉自身が薄く重なり合って映った。彼は自分で自分の悄然《しょんぼり》とした姿を見た。
 三吉は独りで部屋の内を歩いた。静かに過去ったことを胸に浮べた。この一夏の留守居は、夫と妻の繋《つな》がれている意味をつくづく思わせた。彼は、結婚してからの自分が結婚しない前の自分で無いに、呆《あき》れた。由緒《ゆいしょ》のある大きな寺院《おてら》へ行くと、案内の小坊主が古い壁に掛った絵の前へ参詣人《さんけいにん》を連れて行って、僧侶《ぼうさん》の一生を説明して聞かせるように、丁度三吉が肉体から起って来る苦痛は、種々な記憶の前へ彼の心を連れて行ってみせた。そして、家を持った年にはこういうことが有った、三年目はああいうことが有った、と平素《ふだん》忘れていたようなことを心の底の方で私語《ささや》いて聞かせた。それは殊勝気な僧侶の一代記のようなものでは無かった。どれもこれも女のついた心の絵だ。隠したいと思う記憶ばかりだ。三吉は、深く、深く、自分に呆れた。
 遠く雷の音がした。夏の名残《なごり》の雨が来るらしかった。


「只今《ただいま》」
 お雪は種夫を抱きながら、車から下りた。下婢《おんな》も下りた。
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