屋へ戻った。
「俊は最早帰って来ないんじゃないか」
夜が更《ふ》けるに随《したが》って、こんなことまで考えるように成った。
壁には、お房の引延した写真が額にして掛けてある。洋燈《ランプ》の光がその玻璃《ガラス》に映った、三吉は火の影を熟《じっ》と視《み》つめて、何をお俊が母親に語りつつあるか、と想像してみた。近づいて見れば、叔父の三吉も、従兄弟《いとこ》の正太とそう大した変りが無い……低い鋭い声で、こう語り聞かせているだろうか。それは唯《ただ》考えてみたばかりでも、暗い、遣瀬《やるせ》ない心を三吉に起させた。
「俊はまた、何を間違えたんだ。俺はそんな積りじゃ無いんだ」
臆病《おくびょう》な三吉は、こうすべてを串談《じょうだん》のようにして、笑おうと試みた。「叔父さん、叔父さん」と頼みにして来て、足の裏を踏んでくれるとか、耳の垢《あか》を取ってくれるとか、その心易《こころやす》だてを彼はどうすることも出来なかったのである。「結婚しない前は、俺もこんなことは無かった」こう嘆息して、三吉は寝床に就《つ》いた。
翌朝《よくあさ》、お俊は帰って来た。彼女は別に変った様子も見えなかった。
「どうしたい」
と叔父はお延の居るところで聞いた。彼は心の中で、よく帰って来てくれたと思った。
「なんだか急に父親《おとっ》さんや母親《おっか》さんの顔が見たく成ったもんですから……突然《だしぬけ》に家へ帰ったら、皆な驚いちゃって……」
こう答えるお俊の手を、お延は娘らしく握った。お俊は皆なに心配させて気の毒だったという眼付をした。
漸く三吉も力を得た。日頃義理ある叔父と思えばこそ、こうして働きに来てくれると、お俊の心をあわれにも思った。
その日から、三吉はなるべく姪を避けようとした。避けようとすればするほど、余計に巻込まれ、蹂躙《ふみにじ》られて行くような気もした。彼は最早、苦痛なしに姪の眼を見ることが出来なかった。どうかすると、若い女の髪が蒸されるとも、身体《からだ》が燃えるともつかないような、今まで気のつかなかった、極《ご》く極く幽《かす》かな臭気《におい》が、彼の鼻の先へ匂って来る。それを嗅ぐと、我知らず罪もないものの方へ引寄せられるような心地がした。この勢で押進んで行ったら、自分は畢竟《つまり》どうなる……と彼は思って見た。
「俺は、もう逃げるより他に仕方が無い」
到頭、三吉はこんな狂人《きちがい》じみた声を出すように成った。
二人の前垂を持った商人《あきんど》らしい男が、威勢よく格子戸を開けて入って来た。一人は正太だ。今一人は正太が連れた来た榊《さかき》という客だ。
「今日《こんにち》は」
と正太はお俊やお延に挨拶して置いて、連《つれ》と一緒に叔父の部屋へ通った。
お俊は茶戸棚の前に居た。客の方へ煙草盆を運んで行った従姉妹は、やがて彼女の側へ来た。
「延ちゃん、貴方《あなた》持って行って下さいな――私が入れますからネ」
と言って、お俊は茶を入れた。
客の榊というは、三島の方にある大きな醤油屋《しょうゆや》の若主人であった。不図《ふと》したことから三吉は懇意に成って、この人の家へ行って泊ったことも有った。十年も前の話。榊なら、それから忘れずにいる旧《ふる》い相識《しりあい》の間柄である。唯、正太と一緒に来たのが、不思議に三吉には思えた。そればかりではない、醤油蔵の白壁が幾つも並んで日に光る程の大きな家の若主人が、東京に出て仮に水菓子屋を始めているとは。加《おまけ》に、若い細君が水菓子を売ると聞いた時は、榊が戯れて言うとしか三吉には思われなかった。
「現に、私が買いに行きました」と正太が言出した。「私もネ、しばらく気分が悪くて、伏枕《ふせ》っていましたから、何か水気のある物を食べたいと思って買わせに遣《や》るうちに……どうも話の様子では、普通《ただ》の水菓子を売る家の内儀《おかみ》さんでは無い。聞いてみると、御名前が榊さんだ。小泉の叔父の話に、よく榊さんということを聞くが……もしや……と思って、私が自分で買いに行ってみました。果して叔父さんの御馴染《おなじみ》の方だ。それから最早こんなに御懇意にするように成っちゃったんです」
「橋本君とはスッカリお話が合って了って」と言って、榊は精悍《せいかん》な眼付をして、「先生――何処でどういう人に逢うか、全く解りませんネ」
榊の「先生」は口癖である。
正太は時々お俊の方を見た。「叔父さん、種々《いろいろ》御心配下さいましたが、裏の叔父さんから頼んで頂いた方はウマく行きませんでした。そのかわり、他の店に口がありそうです。実は榊君も私と同じように兜町を狙《ねら》っているんです」
その日の正太は元気で、夏羽織なぞも新しい瀟洒《さっぱり》としたものを着ていた。「今にウンと一つ働
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