「菊ちゃんが死んじゃったんでは、真実《ほんと》にツマリません」とお雪が答える。
「此頃《こないだ》は君、大変な婦人《おんな》が僕の家へ舞込んで来ました」と三吉が言ってみた。「――切下げ髪にして、黒い袴《はかま》を穿《は》いてネ。突然《いきなり》入って来たかと思うと、説教を始めました。恐しい権幕《けんまく》でお雪を責めて行きましたッけ」
「大屋さんの御親類」とお雪も引取って、「その人が言うには、なんでも私の信心が足りないんですッて――ですから私の家には、こんなに不幸ばかり続くんですッて――この辺は、貴方《あなた》、それは信心深い処なんですよ」こう正太に話し聞かせた。
不安な眼付をしながら、三吉は家の中を眺め廻した。中の部屋の柱のところには、お房がリボンの箱などを取出して、遊びに紛れていた。三吉は思付いたように、お房の方へ立って行った。一寸《ちょっと》、子供の額へ手を宛《あ》ててみて、復た正太の前に戻った。
その時、表の格子戸の外へ来て、何かゴトゴト言わせているものが有った。
「菊ちゃんのお友達が来た」
と言って、お雪は玄関の方へ行ってみた。しばらく彼女は上《あが》り端《はな》の障子のところから離れなかった。
「オイ、菓子でもくれて遣りナ」
と夫に言われて、お雪は中の部屋にある仏壇の扉《と》を開けた。そして、新しい位牌《いはい》に供えてあった物を取出した。近所の子供が礼を言って、馳出《かけだ》して行った後でも、まだお雪は耳を澄まして、小さな下駄の音に聞入った。
女学生風の袴を着けた娘がそこへ帰って来た。お延《のぶ》と言って、郷里《くに》から修行に出て来た森彦の総領――三吉が二番目の兄の娘である。この娘は叔父の家から電車で学校へ通っていた。
「兄さん、被入《いらっ》しゃい」
とお延は正太に挨拶《あいさつ》した。従兄妹《いとこ》同志の間ではあるが日頃正太のことを「兄さん、兄さん」と呼んでいた。
毎日のようにお雪は子供の墓の方へ出掛けるので――尤《もっと》も、寺も近かったから――その日もお延を連れて行くことにした。後に残った三吉と正太とは、互に足を投出したり、寝転んだりして話した。
その時まで、正太は父の達雄のことに就《つ》いて、何事《なんに》も話さなかった。遽《にわ》かに、彼は坐り直した。
「まだ叔父さんにも御話しませんでしたが、漸く吾家《うち》の阿父《おやじ》の行衛《ゆくえ》も分りました」
こんなことを言出した。久しく居所《いどころ》さえも不明であった達雄のことを聞いて、三吉も身を起した。
「先日、Uさんが神戸の方から出て来まして、私に逢いたいということですから――」と言って、正太は声を低くして、「その時Uさんの話にも、阿父も彼方《あちら》で教員してるそうです。まあ食うだけのことには困らん……それにしても、あんなに家を滅茶滅茶《めちゃめちゃ》にして出て行った位ですから、もうすこし阿父も何か為《す》るかと思いましたよ」
「あの若い芸者はどうしましたろう――達雄さんが身受をして連れて行ったという少婦《おんな》が有るじゃありませんか」
「あんなものは、最早|疾《とっく》にどうか成って了いましたあね」
「そうかナア」
「で、叔父さん、Uさんが言うには、考えて見れば橋本さんも御気の毒ですし、ああして唯|孤独《ひとり》で置いてもどうかと思うからして、せめて家族の人と手紙の遣取《やりとり》位はさせて進《あ》げたいものですッて」
「では、何かネ、君は父親《おとっ》さんと通信《たより》を始める積りかネ」と三吉が尋ねた。
「否《いいえ》」正太の眼は輝いた。「勿論《もちろん》――私が書くべき場合でもなし、阿父にしたところが書けもしなかろうと思います。そりゃあもう、阿父が店のものに対しては、面向《かおむけ》の出来ないようなことをして行きましたからネ。唯、母が可哀そうです……それを思うと、母だけには内証でも通信させて遣《や》りたい。Uさんが間に立ってくれるとも言いますから」
こういう甥の話は、三吉の心を木曾川《きそがわ》の音のする方へ連れて行った。旧《ふる》い橋本の家は、曾遊《そうゆう》の時のままで、未だ彼の眼にあった。
「変れば変るものさネ。君の家の姉さんのことも、豊世さんのことも、君のことも――何事《なんに》も達雄さんは知るまいが。ホラ、僕が君の家へ遊びに行った時分は、達雄さんも非常に勤勉な人で、君のことなぞを酷《ひど》く心配していたものですがナア。あの広い表座敷で、君と僕と、よく種々《いろいろ》な話をしましたッけ。あの時分、君が言ったことを、僕はまだ覚えていますよ」
「あの時分は、全然《まるで》私は夢中でした」と正太は打消すように笑って、「しかし、叔父さん、私の家を御覧なさい――不思議なことには、代々若い時に家を飛出しています
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