た仕事を纏《まと》めた。早く東京で家を持つように成ろう、この考えは正太の胸の中を往来していた。
 動き光る若葉のかげで、三吉、正太の二人はしばらく時を移した。やがて庭の方へ引返して行った。荵《しのぶ》を仕立てる場所について、植木室《うえきむろ》の側を折れ曲ると、そこには盆栽棚が造り並べてある。香の無い、とは言え誘惑するように美しい弁《べん》の花が盛んに咲乱れている。植木屋の娘達は、いずれも素足に尻端折《しりはしょり》で、威勢よく井戸の水を汲《く》んでいるのもあれば、如露《じょうろ》で花に灑《そそ》いでいるのもあった。三吉は自分の子供に逢《あ》った。
「房ちゃん」
 と正太も見つけて呼んだ。
 お房は、耳のあたりへ垂下《たれさが》る厚い髪の毛を煩《うる》さそうにして、うっとりとした眼付で二人の方を見た。何処《どこ》か気分のすぐれないこの子供の様子は、余計にその容貌《おもばせ》を娘らしく見せた。
「叔父さん、まだ房ちゃんは全然《すっかり》快《よ》くなりませんかネ」
「どうも、君、熱が出たり退《ひ》いたりして困る。二人ばかり医者にも診《み》て貰いましたがネ。大して悪くもなさそうですが、快くも成らない―なんでも医者の言うには腸から来ている熱なんだそうです。」
 こんな話をしながら、二人はお房を連れて、庭づたいに井戸のある方へ廻った。
「でも、房ちゃんは余程姉さんらしく成りましたネ」
 と正太は木犀《もくせい》の樹の側を通る時に言った。
 この木犀は可成《かなり》の古い幹で、細長い枝が四方へ延びていた。それを境に、疎《まばら》な竹の垣を繞《めぐ》らして、三吉の家の庭が形ばかりに区別してある。
「お雪、房ちゃんに薬を服《の》ましたかい」
 と三吉は庭から尋ねてみた。正太も縁側のところへ腰掛けた。
「どういうものか、房ちゃんはあんな風なんですよ」とお雪はそこへ来て、娘の方を眺めながら言った。「すこし屋外《そと》へ遊びに出たかと思うと、直に帰って来て、ゴロゴロしてます。今も、父さん達のところへ行って見ていらっしゃいッて、私が無理に勧めて遣《や》ったんですよ」


 長い労作の後で、三吉も疲れていた。不思議にも彼は休息することが出来なかった。唯《ただ》疲労に抵抗するような眼付をしながら、甥《おい》と一緒に庭へ向いた部屋へ上った。
「正太さん、大屋さんから新茶を貰いました――一つ召上ってみて下さい」
 こう言ってお雪が持運んで来た。三吉は、その若葉の香を嗅《か》ぐようなやつを、甥にも勧め、自分でも啜《すす》って、仕事の上の話を始めた。彼の話はある露西亜《ロシア》人のことに移って行った。その人のことを書いた本の中に、細君が酢乳《すぢち》というものを製《こしら》えて、著作で労《つか》れた夫に飲ませたというところが有った。それを言出した。
「ああいう強壮な体格を具《そな》えた異人ですらもそうかナア、と思いましたよ。なにしろ、僕なぞは随分無理な道を通って来ましたからネ。仕事が済んで、いよいよそこへ筆を投出した時は――その心地《こころもち》は、君、何とも言えませんでした。部屋中ゴロゴロ転《ころ》がって歩きたいような気がしました」
 正太は笑わずにいられなかった。
 三吉は言葉を継いで、「自分の行けるところまで行ってみよう――それより外に僕は何事《なんに》も考えていなかったんですネ。一方へ向いては艱難《かんなん》とも戦わねばならずサ。それに子供は多いと来てましょう。ホラ、あのお繁の亡くなった時には、山から書籍《ほん》を詰めて持って来た茶箱を削《けず》り直して貰って、それを子供の棺にして、大屋さんと二人で寺まで持って行きました。そういう勢でしたサ。お繁が死んでくれて、反《かえ》って難有《ありがた》かったなんて、串談《じょうだん》半分にも僕はそんなことをお雪に話しましたよ……ところが君、今度は家のやつが鳥目などに成るサ……」
「そうそう」と正太も思出したように、「あの時はエラかった。私も新宿まで鶏肉《とり》を買いに行ったことが有りました」
「そんな思をして骨を折って、漸くまあ何か一つ為《し》た、と思ったらどうでしょう。復たお菊が亡くなった。僕は君、悲しいなんていうところを通越《とおりこ》して、呆気《あっけ》に取られて了《しま》いました――まるで暴風にでも、自分の子供を浚《さら》って持って行かれたような――」
 思わず三吉はこんなことを言出した。この郊外へ引移ってから、彼の家では初めての男の児が生れていた。種夫《たねお》と言った。その乳呑児《ちのみご》を年若な下婢《おんな》に渡して置いて、やがてお雪も二人の話を聞きに来た。
「どんなにか叔母さんも御力落しでしょう」と正太はお雪の方へ向いて、慰め顔に、「郷里《くに》の母からも、その事を手紙に書いて寄《よこ》しました」
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