飯を食うのも難有《ありがた》いことの――実の家族が今日あるは、主に森彦の力である、お俊なぞはそれを忘れては成らないことの――朝飯の済んだ後に成っても、まだ叔父は娘達に説き聞かせた。
 こういう尤《もっと》もらしいことを言っている中にも、三吉が狼狽《あわ》てた容子《ようす》は隠せなかった。彼は窓の方へ行って、往来に遊んでいる子供等の友達、餌《え》を猟《あさ》り歩く農家の鶏などを眺めながら、前の晩のことを思ってみた。草木も青白く煙るような夜であった。お俊を連れて、養鶏所の横手から彼の好きな雑木林の道へ出た。月光を浴びながら、それを楽んで歩いていると、何処《どこ》で鳴くともなく幽《かす》かな虫の歌が聞えた。その道は、お房やお菊が生きている時分に、よく随いて来て、一緒に花を摘《と》ったり、手を引いたりして歩いたところである。不思議な力は、不図《ふと》、姪の手を執らせた。それを彼はどうすることも出来なかった。「こんな風にして歩いちゃ可笑しいだろうか」と彼が串談《じょうだん》のように言うと、お俊は何処までも頼りにするという風で、「叔父さんのことですもの」と平素《いつも》の調子で答えた。この「こんな風にして歩いちゃ可笑しいだろうか」が、彼を呆《あき》れさせた。
「馬鹿!」
 三吉は窓のところに立って、自分を嘲《あざけ》った。
 お俊やお延は中の部屋に机を持出した。「お雪叔母さん」のところへ手紙を書くと言って、互に紙を展《ひろ》げた。別に、お俊は男や女の友達へ宛てて送るつもりで、自分で画いた絵葉書を取出した。それをお延に見せた。
 お延はその絵葉書を机の上に並べて見て、
「お俊姉さま、私にも一枚画いておくんなんしょや」
 と従姉妹の技術を羨《うらや》むように言った。
 お俊に絵画を学ぶことを勧めたのは、もと三吉の発議であった。彼女の母親は、貧しい中にも娘の行末を楽みにして、画の先生へ通うことを廃《や》めさせなかった。幾年か彼女は花鳥の模倣を習った。三吉の家に来てから、叔父は種々な絵画の話をして聞かせて、直接に自然に見ることを教えようとした。次第に叔父はそういう話をしなく成った。
 庭の垣根のところには、鳳仙花《ほうせんか》が長く咲いていた。やがてお俊はそれを折取って来た。萎《しお》れた花の形は、美しい模様のように葉書の裏へ写された。その色彩がお延の眼を喜ばせた。
「叔父さん、見ちゃ厭《いや》よ」
 とお俊は、傍《そば》へ来た叔父の方を見て、自分の画いた絵葉書を両手で掩《おお》うた。
 学校の友達の噂から、復たお俊の話は引出されて行った。彼女は日頃崇拝する教師のことを叔父に話した。学校の先生に言わせると、この世には十の理想がある、それを合せると一つの大きな理想に成る――七つまでは彼女も考えたが、後の三つはどうしても未だ思い付かない、この夏休はそれで頭脳《あたま》を悩している。こんなことを言出した。お俊は附添《つけた》して、丁度《ちょうど》先生は「吾家《うち》の祖父《おじい》さん」のような人だと言った。先生と忠寛とは大分違うようだ、と三吉が相手に成ったのが始まりで、お俊は負けずに言い争った。
「へえ、お前達はそんな夢を見てるのかい」
 と叔父は言おうとしたが、それを口には出さなかった。彼は幅の広い肩を動《ゆす》って、黙って自分の部屋の方へ行って了った。


 夜が来た。
 屋外《そと》は昼間のように明るい。燐《りん》のような光に誘われて、復た三吉は雑木林の方まで歩きに行きたく成った。お俊は叔父に連れられて行った。
 やがて、三吉達が散歩から戻って来た頃は、最早《もう》遅かった。表の農家では戸を閉めて了った。往来には、大きな犬が幾つも寝そべって頭を持上げたり、耳を立てたりしていた。中には月あかりの中を馳出《かけだ》して行くのもあった。三吉は姪を庇護《かば》うようにして、その側を盗むように通った。表の門から入って、金目垣《かなめがき》と窓との狭い間を庭の方へ抜けると、裏の女教師の家でも寝た。三吉の家の方へ向いた暗い窓は、眼のように閉じられていた。
 深い静かな晩だ。射し入る月の光は、縁側のところへ腰掛けた三吉の膝《ひざ》を照らした。お俊は、従姉妹の側へ寝に行ったが、眼が冴《さ》えて了って眠られないと言って、白い寝衣《ねまき》のままで復た叔父の側へ来た。
 急に犬の群が竹の垣を潜《くぐ》って、庭の中へ突進して来た。互に囓合《かみあ》ったり、尻尾《しっぽ》を振ったりして、植木の周囲《まわり》を馳《か》けずり廻って戯れた。ふと、往来の方で仲間の吠《ほ》える声が起った。それを聞いて、一匹の犬が馳出して行った。他の犬も後を追って、復た一緒に馳出して行った。互に鳴き合う声が夜更《よふ》けた空に聞えた。
「真実《ほんと》に――寝て了うのは可惜《おし》いような晩ねえ
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