て来て、表の戸を閉めて入った。
「お俊姉さまは屋外《そと》で泣いてた」
「あら、泣きやしないわ」


「叔父さんは?」
「今まで縁側に腰掛けていらしってよ」
 こう娘達は言い合って、洋燈《ランプ》のもとで針仕事をひろげていた。翌《あく》る晩のことである。
 お俊はお延の着物を縫っていた。お延は又、時々従姉妹の方を眺《なが》めて、自分の着物がいくらかずつ形を成して行くことを嬉しそうにしていた。来《きた》る花火の晩には、この新しい浴衣を着て、涼しい大川の方へ行って遊ぼう、その時は一緒に森彦の旅舎《やどや》へ寄ろう、それから直樹の家を訪ねよう――それからそれへと娘達は楽みにして話した。
 曇った空ながら、月の光は地に満ちていた。三吉は養鶏所の横手から、雑木林の間を通って、ずっと岡の下の方まで、歩きに行って来た。明るいようで暗い樹木の影は、郊外の道路《みち》にもあった。植木屋の庭にもあった。自分の家の縁側の外にもあった。帰って来て、復《ま》た眺めていると、姪《めい》達はそろそろ寝る仕度を始めた。
「叔父さん、お先へお休み」
 と言いに来て、二人とも蚊帳《かや》の内へ入った。叔父は独りで起きていた。
 楽しい夜の空気はすべての物を包んだ。何もかも沈まり返っていた。樹木ですら葉を垂れて眠るように見えた。妙に、彼は眠られなかった。一旦《いったん》蚊帳の内へ入って見たが、復た這出《はいだ》した。夜中過と思われる頃まで、一枚ばかり開けた戸に倚凭《よりかか》っていた。
 短い夏の夜が明けると、最早《もう》立秋という日が来た。生家《さと》に居るお雪からは手紙で、酷《きび》しい暑さの見舞を書いて寄《よこ》した。別に二人の姪へ宛《あ》てて、留守中のことはくれぐれも宜しく頼む、と認《したた》めてあった。
 その日、お俊はすこし心地《こころもち》が悪いと言って、風通しの好い処へ横に成った。物も敷かずに枕をして、心臓のあたりを氷で冷した。お延は、これも鉢巻で、頭痛を苦にしていた。
 三吉は子供でも可傷《いたわ》るように、
「叔父さんは、病人が有ると心配で仕様が無い」
「御免なさいよ」
 とお俊は半ば身を起して、詫びるように言った。
 死んだ子供の墓の方へは、未だ三吉は行く気に成らないような心の状態《ありさま》にあった。時々彼は空《くう》な懐《ふところ》をひろげて、この世に居ない自分の娘を捜した……彼の虚《むな》しい手の中には、何物も抱締めてみるようなものが無かった……朝に晩に傍へ来る娘達が、もし自分の真実《ほんとう》の子供ででもあったら……この考えはすこし彼を呆《あき》れさせた。死んだお房のかわりに抱くとしては、お俊なぞは大き過ぎたからである。
 近所の人達は屋外《そと》へ出た。互に家の周囲《まわり》へ水を撒《ま》いた。叔父が跣足《はだし》で庭へ下りた頃は、お俊も気分が好く成ったと言って、台所の方へ行って働いた。夕飯過に、三吉は町から大きな水瓜《すいか》を買って戻って来た。思いの外《ほか》お俊も元気なので、叔父は安心して、勉めてくれる娘達を慰めようとした。燈火《あかり》を遠くした縁側のところには、お俊やお延が団扇《うちわ》を持って来て、叔父と一緒に水瓜を食いながら、涼んだ。
 女教師の家へも水瓜を分けて持って行ったお延は、やがて庭伝いに帰って来た。
「裏の叔父さんがなし、面白いことを言ったデ――『ああ、ああ、峯公(女教師の子息)も独りで富士登山が出来るように成ったか、して見ると私が年の寄るのも……』どうだとか、こうだとか――笑って了《しま》ったに」
 お延の無邪気な調子を聞くと、お俊は笑った。
 何時《いつ》の間にか、月の光が、庭先まで射し込んで来ていた。お延は早く休みたいと言って、独りで蚊帳の内へ入った。夜の景色が好さそうなので、三吉は前の晩と同じように歩きに出た。お俊も叔父に随《つ》いて行った。


 朝の膳《ぜん》の用意が出来た。お延は台所から熱いうつしたての飯櫃《めしびつ》を運んだ。お俊は自分の手で塩漬にした茄子《なす》を切って、それを各自《めいめい》の小皿につけて持って来た。
 三吉は直ぐ箸《はし》を執《と》らなかった。例《いつ》になく、彼は自分で自分を責めるようなことを言出した。「実に、自分は馬鹿らしい性質だ」とか、何だとか、種々なことを言った。
「これから叔父さんも、もっとどうかいう人間に成ります」
 こう三吉はすこし改まった調子で言って、二人の姪の前に頭を下げた。
 お俊やお延は笑った。そして、叔父の方へ向いて、意味もなく御辞儀をした。
 漸く三吉は箸を執り上げた。ウマそうな味噌《みそ》汁の香を嗅《か》いだ。その朝は、よく可笑《おか》しな顔付をして姪達を笑わせる平素《ふだん》の叔父とは別の人のように成った。死んだ子供等のことを思えば、こうして
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