るな、と言わなかったろう。家を出る位の思をしても……その苦痛《くるしみ》が何の役にも立たない……」
「いえ、叔父さん、そう阿爺《おやじ》の方から出てくれれば、まさかに赤い着物を着せるとも、誰も言いはしなかったろうと思います。ところが阿爺はそうじゃなかった。『俺にそれを着せてくれるな』と言出した……その時、もうこれは駄目だ、と私も思いました」
こう二人は達雄のことを言って見たが、でも何となく頭が下った。目下のものが旧家の家長に対する尊敬の心は、是方《こちら》に道理があると思う場合でも、不思議に二人に附いて廻った。
豊世が膳《ぜん》を運んで来た。正太は力の無い咳《せき》をして、叔父と一緒に笑いながら食った。三吉は姉の生涯をあわれに思うという話なぞをした後で、
「僕は、今度は、姉さんにも言った……莫迦《ばか》に怒られちゃった……」
「なにしろ、母親さんは、神聖にして犯す可《べか》らず――吾家《うち》じゃそう成っていましたからネ。しかし、叔父さん、小泉忠寛翁の風貌《ふうぼう》を伝えたものは――貴方の姉弟中で、吾家の母親さんが一番ですよ」
正太はすべて可懐《なつか》しいという眼付をした。母も、幸作夫婦も、家を捨てて行った父も――
「森彦叔父さんを訪ねて見ようじゃ有りませんか。私の病気のことは未だ誰にも言わずに有ります。あの叔父さんにも知らせて有りません。母親さんは無論のこと。唯、貴方《あなた》に御話するだけです。豊世は……これはまあ看護をしてくれる人ですから……」
こんなことを言って、翌日正太は三吉を誘った。彼は胸に病のある人とも見えないほど爽快《さわやか》な声で話す時もあった。活気のある甥の様子に、三吉もやや安心して、一緒に森彦の宿を訪ねることにした。
「森彦叔父さんも奮闘していますぜ」
と正太は箱梯子を降りかけた時に言った。
午後に成って、正太は名古屋女の観察、音曲、家屋の構造なぞの話を叔父に聞かせながら帰って来た。暖簾《のれん》を潜《くぐ》ると、茶室のように静かな家の内には読経《どきょう》する若主人の声が聞える。それを聞きながら、二人は表二階の方へ上って行った。
豊世は行末のことまでも思うという風で、二人の傍へ来た。
「豊世さん、貴方はどうする人ですか」と三吉が尋ねた。「未だここに居る人ですか」
「私も困って了いますわ。こうして置いても行かれませんし、そうかと言って、東京の家を畳むのも惜しいなんて言いますし――」
「ああ、意気地の無いものは駄目です」と正太は妻の方を見て、アテコスるような調子で歎息した。「どういうものか、豊世は、イヤに突掛って来るようなことばかり言う……こう俺に……しかし、無理も無いサ。この年に成って、碌に妻も養えないような人間だからナア」
これを聞くと、豊世はもう何事《なんに》も言えなかった。
「まあ、森彦さんにも相談するサ」と云って、三吉は調子を変えて、「駒形の家に居る老婆《ばあ》さんネ、あの人も一生懸命で君の留守居をしてるよ。稀《たま》に僕が留守見舞に寄ると、これは旦那から預った植木だから、どうしてもこいつを枯らしちゃ成らんなんて……余程《よっぽど》主人思いだネ」
正太も笑った。「叔父さん、ホラ、私がこの夏、岐阜《ぎふ》の方へ行って、鵜飼《うかい》の絵葉書を差上げましたろう。あの時、下すった御返事は、大事に取っといてあります」
「どんな返事を進《あ》げたっけネ」
「ホラ、私も長良川《ながらがわ》に随いて六七里下りましたと申上げました時に……あの暑い盛りに……こう夏草の香のする……」
「そうそう、木曾路を行くがごとしなんて、君から書いて寄《よこ》したッけネ――是方《こっち》の暑さが思いやられたッけ」
正太は深い、深い溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
暮方に、三吉は東京へ向けて、夜汽車で発つことにした。叔父を見送ろうとして、正太は一緒にこの宿を出た。電車で名古屋の停車場まで乗った。時間はまだすこし早かった。正太は燈火《あかり》の点《つ》き始めた停車場の前をあちこちと静かに歩いて、ふと思いついたように叔父に向って、
「貴方の許《とこ》の叔母さんにしろ、吾家《うち》のやつにしろ、今が一番身体の盛んな時でしょう――」
見ても圧迫を感ずるという調子に、彼は言った。
間もなく三吉は新橋行の列車の中に入った。窓の外には、見送の切符を握った正太が立って、何もかも惨酷《むご》いほど身に浸《しみ》るという様子をしていた。車掌は飛んで来て相図の笛を鳴らした。正太は前の方へ曲《こご》み気味に、叔父をよく見ようとするような眼付をした。三吉も窓のところに、濡《ぬ》れ雫《しずく》に成った鶏のようにションボリ立っていた。
「叔母さんにも宜《よろ》しく……」
と正太が言う頃は、汽車は動き出していた。
停車場の灯
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