、薄暗い人の顔は窓の玻璃《ガラス》に映ったり消えたりした。宿の方へ戻って行く正太の姿を、三吉は想って見た。「郷里《くに》へでも帰って静養したらどうです」と森彦の旅舎《やどや》から帰りがけに甥に言った時、正太が首を振って、健気《けなげ》にも未だ戦おうという意気を示したことなぞが、三吉の胸にあった。正太の失敗も知らず、まして病気も知らず、彼一人に希望を繋《つな》いでいるような橋本の家の人達のことも浮んで来た。
「可哀想な男だ」
こう口の中で言って見て、長いこと三吉は窓のところに立っていた。
十
春が来た。正太の留守宅では、豊世と老婆《ばあさん》と二人ぎりで、四月あまりも名古屋の方の噂《うわさ》をして暮した。豊世は十一月末に東京へ引返したので、駒形《こまがた》の家の方で女ばかりの淋《さび》しい年越をした。河の方へ向いた玻璃《ガラス》障子の外へは幾度となく雪が来た。石垣の下に見える物揚場の伊豆石、家々の屋根、対岸の道路などは、その度《たび》に白く掩《おお》われた。弟という人と一緒に二階を借りて夫婦同様に暮している女の謡曲の師匠が他へ移るとか移らないとか、家主が無理に立退《たちのき》を迫るとか、煩《うるさ》いことの多い中に、最早家の周囲《まわり》には草の芽を見るように成った。
やがて豊世はこの惜しい世帯を畳まなければ成らない人であった。正太が放擲《うっちゃらか》して置いて行った諸方《ほうぼう》の遊び場所からは、あそこの茶屋の女中、ここの待合の内儀《おかみ》、と言って、しばしば豊世を苦めに来た。彼女はそういう借金の言訳ばかりにも、疲れた。そればかりではない、月々の生活を支《ささ》える名古屋からの送金は殆《ほと》んど絶えて了《しま》った……家賃も多く滞った……老婆に払うべき給料さえも借に成った……
家具を売払って、一旦《いったん》仕末を付けよう、こう考えながら豊世は家の内を歩いて見た。二度とこうした世帯が持てるであろうか、自ら問い自ら答えて、幾度《いくたび》か彼女は家の形を崩すことを躊躇《ちゅうちょ》した。
勝手の流許《ながしもと》には、老婆が蹲踞《しゃが》んで、ユックリユックリ働いていた。豊世は板の間に立って眺《なが》めた。ゴチャゴチャした勝手道具はこの奉公人に与えようと考えていた。
「真実《ほんと》にねえ、これまでに丹精するのは容易じゃなかった」と豊世は独語《ひとりごと》のように言った。
「奥様、何卒《どうか》まあ、一日も早く旦那様の方へ御一緒に御成遊ばすように……」と老婆は腰を延ばして、「私も、何か頂きたくて、これまで御世話を致したのじゃ御座いません。奥様がこうして御一人でいらっしゃるのが、私は心配で堪《たま》りません……御留守居は最早沢山で御座いますよ……」
この奉公人は、リョウマチ気《け》のある手を揉《も》み揉み言っていた。
豊世は水に近い空の見える方へ行った。川蒸汽や荷舟は相変らず隅田川《すみだがわ》を往復しつつあった。玻璃障子の直ぐ外にある植込には、萩《はぎ》や薔薇《ばら》などを石垣の外までも這《は》わせて、正太がよく眼を悦《よろこ》ばした場所である。豊世は、その玻璃障子も他の造作と一緒に売ろうと考えた。
長く手入もせずに置いた草木は、そこに柔かな芽を吹いていた。それを見ると、幾年か前の春が彼女の胸に浮んだ。橋本の姑《しゅうとめ》が寝物語に、男の機嫌《きげん》の取りようなぞを聞かされて、それにまた初心らしく耳傾けたことは、夢のように成った。相場師の妻らしく粧おうとして、自然と彼女は風俗《みなり》をもつくった。女に出来ることで、放縦な夫の心を悦ばすようなことは、何でもした。それほど夫の心まかせに成ったのも、何卒《どうか》して夫の愛を一身に集めたいと思ったからで……夫の胸に巣くう可恐《おそろ》しい病毒、それが果して夫の言うように、精神の過労から発したのか、それとも夫が遊蕩《ゆうとう》の報酬《むくい》か、殆んど彼女には差別のつかないものに思われた。
二月の末頃、正太は一度名古屋から上京したこともあった。その時は顔色も悪く、唯|瘠我慢《やせがまん》で押通しているような人であった。「旦那様は御自分じゃ、十年も生きるようなことを仰って被入《いら》っしゃいますが……どうして私の御見受申したところでは、二三年もむずかしゅう御座いますよ」と老婆は蔭で豊世に言った。二三日|逗留《とうりゅう》した正太の身体からは、毎晩のように、激しい、冷い寝汗が流れた。まるで生命の油が尽きて行くかのように。それを豊世は海綿で拭《ふ》き取ってやったことも有った。
その時の夫の言葉を、彼女は思出した。
「看護婦さん、足でも撫《さす》っておくれ……」
と夫は言ったが、それを玻璃障子のところで繰返してみた。彼女はまだ女の盛りである
前へ
次へ
全81ページ中75ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング