れないという風であった。
お種は肩を怒らせて、襲って来る敵を待受けるかのように、表座敷の方を見た。
「なんでも彼等は旦那や俺の遣方《やりかた》が悪いようなことを言って――無暗《むやみ》に金を遣《つか》うようなことを言って――俺ばかり責める。若い者なぞに負けてはいないぞ。さあ――責めるなら責めて来い――」
橋本の炉辺では盛んに火が燃えた。三吉が着いて三日目――翌日は彼も姉の家を発《た》つと言うので――豊世やお島やお仙が台所に集って、木曾名物の御幣餅《ごへいもち》を焼いた。お種は台所を若いものに任せて置いて弟の方へ来た。
三吉は庭に出て、奥座敷の前をあちこちと見廻っていた。以前この庭の中で、家内《うち》中|揃《そろ》って写真を撮《と》ったことがある。それを三吉が姉に言って、達雄が立って写した満天星《どうだん》の木の前へ行きながら、そこは正太が腰掛けたところ、ここは大番頭の嘉助が禿頭《はげあたま》を気にしたところ、と指して見せた。彼は自分で倚凭《よりかか》って写した大きな石の間へ行って見た。その石の上へも昇った。
お種は、どうかすると三吉がずっと昔の鼻垂小僧《はなたらしこぞう》のように思われる風で、
「三吉、お前がそんなことをしてるところは、正太に酷《よ》く似てるぞや」
こう言って、彼女も座敷から庭へ下りた。姉は自分が培養している種々な草木の前へ弟を連れて行って見せた。山にあった三吉の家から根分をして持って来た谷の百合には赤い珊瑚珠《さんごじゅ》のような実が下っていた。こうして、花なぞを植えて、旧い家を夢みながら、未だお種は帰らない夫を待っているのであった。
新座敷は奥座敷とつづいてこの庭に向いている。その縁側のところへ来て、お仙が父の達雄に彷彿《そっくり》な、額の広い、眉の秀《ひい》でた、面長な顔を出した。彼女は何を見るともなく庭の方を見て、復た台所の方へ引込んで了った。
木曾路《きそじ》の紅葉を思わせるような深い色の日は、石を載せた板葺《いたぶき》の屋根の上にもあった。お種は自分が生れた山村の方まで思いやるように、
「三吉が行くなら、俺も一緒に御墓参をしたいが――まあ、俺は御留守居するだ」
独語《ひとりごと》のように言って、姉は炉辺の方へ弟を誘った。
午後に、お雪から出した手紙が三吉の許へ着いた。奥座敷の縁側に近いところで、三吉はその手紙を姉と一緒に読んだ。その時、お種は幸作に吩咐《いいつ》けて、家に残った陶器なぞを取出させて、弟に見せた。薬の客に出す為に特に焼かせたという昔の茶呑《ちゃのみ》茶椀から、達雄が食った古雅な模様のある大きな茶椀まで、大切に保存してあった。
「叔父さん、こんなものが有りましたが、お目に掛けましょうか」
と豊世は煤《すす》けた桐の箱を捜出して来た。先祖が死際《しにぎわ》に子供へ遺《のこ》した手紙、先代が写したらしい武器、馬具の図、出兵の用意を細く書いた書類、その他種々な古い残った物が出て来た。
三吉はその中に「黒船」の図を見つけた。めずらしそうに、何度も何度も取上げて見た。半紙程の大きさの紙に、昔の人の眼に映った幻影《まぼろし》が極く粗《あら》い木版で刷《す》ってある。
「宛然《まるで》――この船は幽霊だ」
と三吉は何か思い付いたように、その和蘭陀船《オランダぶね》の絵を見ながら言った。
「僕等の阿爺《おやじ》が狂《きちがい》に成ったのも、この幽霊の御蔭ですネ……」と復た彼は姉の方を見て言った。
お種は妙な眼付をして弟の顔を眺《なが》めていた。
「や、こいつは僕が貰って行こう」
と三吉はその図だけ分けて貰って、お雪の手紙と一緒に手荷物の中へ入れた。
叔父の出発は豊世に取って好い口実を与えた。こういう機会でも無ければ、彼女は容易に母を置いて行くことも出来ないような人であった。
「叔父さん、お願いですから私も連れてって下さいませんか。私も仕度しますわ」
と豊世は無理やりに叔父に頼んで、自分でも旅の仕度を始めた。
三吉はすこし煩《うるさ》そうに、「実は、僕は独《ひと》りで行きたい。それに他《ひと》の細君なぞを連れて行くのも心配だ」
「心配だと思うなら止《よ》すが可いぞや」とお種が言った。
「何でも私は随《つ》いてく」と豊世は新座敷の方から。
「じゃ、汽車に乗るところまで送って進《あ》げよう」と三吉も引受けた。
いよいよ別れると成れば、余計にお種は眠られない風であった。その晩、姉は奥座敷に休んで弟と一緒に遅くまで話した。姉の様子も気がかりなので、一旦《いったん》枕に就《つ》いた三吉は復た巻煙草を取出した。彼は先ずお仙の話をした。あれまでに養育したは姉が一生の大きな仕事であったと言った。薬の紙を折らせることも静かな手細工を与えたようなもので、自然と好い道を取って来たなどと言
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