菓子折を取出した。
「どれ、皆なで偽薬《にせぐすり》の菓子をやらまいか」
と幸作は笑って、それを客にもすすめ、自分でも食った。
お種は若い嫁の方を鋭く見て、
「お島は甘いものが好きだに、沢山《たんと》食べろや――」
「頂いております」とお島は夫の傍に居て。
「オオ、あの嬉しそうな顔をして食べることは――」
姑は無理に笑おうとしていた。
長くも若夫婦は茶を飲んでいなかった。二人が店の方へ行った後で、三吉は姉に向って、
「姉さんの顔は、どうしてそんなにコワく成りましたかネ」
「そうか――俺の顔はコワいか」とお種は自分の眉《まゆ》を和《やわら》げるように撫《な》でながら、「年をとると、女でも顔がコワく成るで……どうかして俺は平静《たいら》な心を持つように、持つように、と思って……こうして毎日自分の眉を撫でるわい」
「どうも貴方の調子は皮肉だ。あんまり種々な目に遭遇《であ》って、苦しんだものだから、自然と姉さんはそう成ったんでしょう。目下のものはヤリキれませんぜ」
「そんなに俺は皮肉に聞えるか」
「聞えるかッて――『オオ、あの嬉しそうな顔をして食べることは』――あんなことを言われちゃ、どんな嫁さんだって食べられやしません」
豊世やお仙は笑った。お種も苦笑して、
「三吉、そうまあ俺を責めずに、一つこの身体を見てくれよ。俺はこういうものに成ったよ――」
と言って、着物の襟《えり》をひろげて、苦み衰えた胸のあたりを弟に出して見せた。骨と皮ばかりと言っても可かった。萎《しな》びた乳房は両方にブラリと垂下っていた。三吉は、そこに姉の一生を見た。
「エライもんじゃないか」
とお種は自分で自分の身体を憐《あわれ》むように見て、復《ま》た急に押隠した。満洲の実から彼女へ宛《あ》てて来た手紙が文机《ふづくえ》の上にあった。彼女はそれを弟に見せようとして、起って行った。
「ア、ア、ア、ア――」
思わずお種は旧い家の内へ響けるような大欠伸《おおあくび》をした。
幸作は表座敷に帳簿を調べていた。優雅な、鷹揚《おうよう》な、どことなく貴公子らしい大旦那のかわりに、進取の気象に富んだ若い事務家が店に坐った。達雄の失敗に懲りて、幸作はすべて今までの行き方を改めようとしていた。暮しも詰めた。人も減らした。炉辺に賑やかな話声が聞えようが、聞えまいが、彼はそんなことに頓着《とんじゃく》していなかった。ドシドシ薬を売弘めることを考えた。「大旦那の時分には、あんなに多勢の人を使って、今の半分も薬が売れていない――あの時分の人達は何を為ていたものだろう――母親さん達は皆なの食う物をこしらえる為にいそがしかった」こう思っていた。お種に取って思出の部屋々々も彼には無用の長物であった。
こういう実際的な幸作のところへ、旧家の空気も知らないお島が嫁《かたづ》いて来た。達雄やお種から見ると、二人は全く別世界の人であった。若い夫婦はどうお種を慰めて可いか解らなかった。
三吉はこの人達の居る方へ来て見た。そこは以前彼が直樹と一緒に一夏を送った座敷で、庭の光景《さま》は変らずにある。谷底を流れる木曾川の音もよく聞える。壁の上には、正太から送って来た水彩画の額が掛っている。こういうものを見て楽む若旦那の心は幸作にもあった。
「姉様《あねさま》を呼んでお出《いで》」
と幸作は妻に吩咐《いいつ》けた。
豊世は困ったような顔付をして、奥座敷の方から来た。「こんな折にでも話さなければ話す折が無い」と言って、幸作はどんなに正太の成功を祈っているかということを話した。苦心して蓄積したものは正太の事業を助ける為に送っているということを話した。お仙を連れて空しく東京を引揚げてからのお種は、実に、譬《たと》えようの無い失望の人であった――こんなことを話した。
「兄様《あにさま》さえ好くやってくれたら、私は何事《なんに》も言うことは無い――私は今、兄様の為に全力を挙げてる――一切の事はそれで解決がつく」
と幸作は力を入れて言った。
姑と若夫婦と両方から話を聞かされて、三吉は碌《ろく》に休むことも出来なかった。その晩も、彼は奥座敷の方へ行って、復たお種の歎《なげ》きを聞いた。姉は遅くなるまで三吉を寝かさなかった。
夜が更《ふけ》れば更るほどお種の眼は冴《さ》えて来た。
「姉さん、若いものに任せて置いたら可いでしょう」
と三吉が言うと、姉はそれを受けて、
「いえ、だから俺は何事《なんに》も言わん積りサ――彼等《あれら》が好いように為て貰ってるサ――」
こういう調子が、どうかすると非常に激して行った。幸作夫婦が始めようとする新しい生活、ドシドシやって来る鉄道、どれもこれもお種の懊悩《なやま》しい神経を刺戟《しげき》しないものは無かった。この破壊の中に――彼女はジッとして坐っていら
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