のした》にして立った。
 削り取った傾斜、生々《なまなま》した赤土、新設の線路、庭の中央を横断した鉄道の工事なぞが、三吉の眼にあった。以前姉に連れられて見て廻った味噌倉も、土蔵の白壁も、達雄の日記を読んだ二階の窓も、無かった。梨畑《なしばたけ》、葡萄棚《ぶどうだな》、お春がよく水汲《みずくみ》に来た大きな石の井戸、そんな物は皆などうか成って了った。お種は手に持った箒で、破壊された庭の跡を弟に指して見せた。向うの傾斜の上の方に僅《わず》かに木小屋が一軒残った。朝のことで、ツルハシを担《かつ》いだ工夫の群は崖の下を通る。
 お種は可恐《おそろ》しいものを見るような眼付して、弟と一緒に奥座敷へ引返した。幸作は表座敷から来て、三吉の注文して置いた墓石が可成《かなり》に出来上ったこと、既に三吉の故郷へ積み送ったことなぞを話した。お種は妙に改まった。
 朝飯には、橋本の家例で、一同炉辺に集った。高い天井の下に、拭《ふ》き込んだ戸棚を後にして、主人から奉公人まで順に膳を並べて坐ることも、下婢が炉辺に居て汁を替えることも、食事をしたものは各自《めいめい》膳の仕末をして、茶椀《ちゃわん》から箸《はし》まで自分々々の布巾《ふきん》で綺麗に拭くことも――すべて、この炉辺の光景《さま》は達雄の正座に着いた頃と変らなかった。しかし、席の末にかしこまって食う薬方の番頭も、手代も、最早昔のような主従の関係では無かった。皆な月給を取る為に通って来た。
「御馳走」
 と以前の大番頭嘉助の忰《せがれ》が面白くないような顔をして膳を離れた。この人は幸作と同じに年季を勤めた番頭である。幸作は自分の席から、不平らしい番頭の後姿を見送って、「為《す》るだけのことを為れば、それで可いじゃないか」という眼付をした。
 賑《にぎや》かな笑声も起らなかった。お種は見るもの聞くもの気に入らない風で、嘆息するように家の内を見廻した。その朝、彼女は箸も執《と》らなかった。三吉を款待《もてな》すばかりに坐っていた。豊世やお仙は言葉少く食った。二人は飯の茶椀で茶を飲みながらも、皆なの顔を見比べた。
「母親さん、召上りませんか」
 とお島は姑《しゅうとめ》の方を見て、オズオズとした調子で言った。
「俺は牛乳を飲んだばかりだで……また後で食べる」
 とお種は答えたが、ぷいと席を立って、奥座敷の方へ行って了った。
 食後に、三吉は久し振の炉辺に居て、幸作を相手に沢田という潔癖な老人のあったことなぞを尋ねた。あの忠寛の旧《ふる》い友達で、よくこの家へやって来た老人は疾《とう》に亡くなっていた。
 ふと、三吉は耳を澄ました。玄関の方へ寄った薬の看板のかげでは、お島の忍び泣するけはいがした。


「そうかナア」という眼付をしながら、三吉は炉辺からお仙のボンヤリ立っている小部屋を通って、姉の居る方へ来た。
 奥座敷の中央《まんなか》には、正太が若い時に手ずから張って漆を抹《は》いたという大きな一閑張《いっかんばり》の机が置いてある。その前に、お種は留守を預ったという顔付で、先代から伝った古い掛物を後にして、達雄の坐るところに自分で坐っていた。豊世は茶道具を出して、それを机の上に運んだ。
 三吉はこの座敷ばかりでなく、納戸《なんど》の方だの、新座敷の方だのを見廻した。改革以来、沢山な道具も減った。たださえ広い家が余計に広く見えた。
「でも、思いの外|種々《いろいろ》な道具が残ってるじゃ有りませんか」と彼は言って見た。
「皆なの丹精で、これまでに為たわい。旦那が出て了った後で、私がお前さんの家から帰って来た時なぞは……眼も当てられすか」とお種は肩を動《ゆす》った。
「そう言えば、達雄さんも満洲の方へ行ったそうですネ」
「そうだゲナ――」
「姉さん、貴方は達雄さんに置去《おきざり》にされたような気はしませんか」
「神戸に居る間は、未だそうは思わなかったよ……どうも帰って来てくれそうな気がして……満洲へ行って了った……それを聞いた時は、最早私も駄目かと思った……」
「仕方が有りません。思い切るサ」
「三吉――お前はそんなことを言うが、どうしても私は思い切れんよ」
 お種は心細そうに笑った。
 ゴーという音が庭先の崖下の方で起った。工夫が石を積んで通る「トロック」の音だ。お種は頭脳《あたま》へでも響けるように、その重い音の遠く成るまで聞いた。やがて、名古屋に居る正太の噂を始めた。彼女は幾度も首を振って、「どうかして彼《あれ》がウマクやってくれると可いが」を熱心に繰返した。
 茶が入ったので、隣の新座敷に薬の紙を折っていたお仙が母の傍へ来た。豊世は幸作夫婦を呼びに行った。
 養子夫婦が入って来ると、急にお種は改まって了った。幸作は橋本の薬を偽造したものから、詫《わび》を入れに来た話なぞをして、その男が置いて行った
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