月の下旬には、三吉は豊世からも絵葉書を受取った。
「其後、叔父様、叔母様には御変りもなく候《そうろう》や。国へ帰りて早や一月にも相成り候。こちらも思うように参らず、留守宅のことも案じられ、一日も早く東京へ参りたく候――」
 と細い筆で書いてある。
 秋も末に成って、幸作からは彫刻の出来上ったことを報知《しら》して来た。そこそこに三吉は旅の仕度《したく》を始めた。姉の様子も心に掛るので、諏訪《すわ》の方から廻って、先《ま》ず橋本の家へ寄り、それから自分の生れ故郷へ向うことにした。森彦や正太は名古屋に集っている。序に、帰りの旅は二人を驚かそうとも思った。お雪も夫の手伝いでいそがしかった。お種のことや、幸作夫婦のことや、未だ郷里《くに》に留まっている豊世のことなぞが、取散《とりちらか》した中で夫婦の噂《うわさ》に上った。
「橋本の姉さんも、親で苦労し、子で苦労し――まだその上に――最早《もう》沢山だろうにナア」
 と夫の嘆息する言葉を聞いて、お雪も姉の一生を思いやった。
 家を出て、三吉は飯田町の停車場《ステーション》へ向った。中央線は鉄道工事の最中で、姉の許《ところ》まで行くには途中一晩泊って、峠を一つ越さなければ成らなかった。それから先には峠の麓《ふもと》から馬車があった。
 この旅に、三吉は十二年目で橋本の家を見に行く人であった。故郷の山村へは十四年目で帰る。


 三吉を乗せた馬車が、お種の住む町へ近づいたのは、日の暮れる頃であった。深い樹木の間には、ところどころに電燈の光が望まれた。あそこにも、ここにも、と三吉は馬車の上から、町の灯を数えて行った。
 馬車は街道に添うて、町の入口で停った。馬丁《べっとう》の吹く喇叭《らっぱ》は山の空気に響き渡った。それを聞きつけて、橋本の家のものは高い石垣を降りて来た。幸作も来て迎えた。三吉はこの人達と一緒に、覚えのある石段を幾曲りかして上って行った。古風な門、薬の看板なぞは元のままにある。家へ入ると、高い屋根の下で焚《た》く炉辺《ろばた》の火が、先ず三吉の眼に映った。そこで彼は幸作の妻のお島や下婢《おんな》に逢《あ》った。お仙も奥の方から出て来た。
「姉さんは?」と三吉が聞いた。
「一寸《ちょっと》町まで行きました、姉様《あねさま》も一緒に。今小僧を迎えに遣りましたで、直ぐ帰って参りましょう」
 こう幸作が相変らず世辞も飾りも無いような調子で答えた。幸作は豊世のことを「御新造」と言わないで、「姉様」と呼ぶように成っていた。
「母親《おっか》さんもどんなにか御待兼でしたよ」
 とお島は客を款待顔《もてなしがお》に言った。この若い細君は森彦の周旋で嫁《かたづ》いて来た人で、言葉|遣《づか》いは都会の女と変らなかった。
「もう、それでも、皆な帰るぞなし」とお仙は叔父の方を見た。
 遅く着いた客の前には、夕飯の膳が置かれた。三吉が旅の話をしながら馳走《ちそう》に成っていると、そこへお種と豊世が急いで帰って来た。お種は提灯《ちょうちん》の火を吹消して上った。三吉と相対《さしむかい》に、炉辺の正面へドッカと坐ったぎり、姉は物が言えなかった。
「叔父さん、真実《ほんとう》によく被入《いら》しって下さいましたねえ」と豊世は叔父に挨拶《あいさつ》して、やがてお仙の方を見て、「お仙ちゃん、母親さんに御湯でも進《あ》げたら好いでしょう。今夜は叔父さんが御着きに成るまいと思っていらしったところへ、急に御見えに成ったものですから、母親さんは嬉しいのと――」
 お種はいくらか蒼《あお》ざめて見えた。お仙のすすめる素湯《さゆ》を一口飲んで、両手を膝《ひざ》の上に置きながら、頭を垂れた。
 ややしばらく経った後で、
「三吉、俺は何事《なんに》も言いません――これが御挨拶です」
 とお種は大黒柱を後にして言った。


 古めかしい奥座敷に取付けられた白い電燈の蓋《かさ》の下で、三吉は眼が覚《さ》めた。そこは達雄の居間に成っていたところで、大きな床、黒光りのする床柱なぞが変らずにある。庭に向いた明るい障子のところには、達雄の用いた机が、位置まで、旧《もと》の形を崩さないようにして置いてある。黄色い模様の附いた毛氈《もうせん》の机掛は、色の古くなったままで、未だ同じように掛っている。
 年をとったお種は、旅に来て寝られない弟よりも、早く起きた。三吉が庭に出て見る頃は、お種は箒《ほうき》を手にして、苔蒸《こけむ》した石の間をセッセと掃いていた。
「こんな山の中にも電燈が点《つ》くように成りましたかネ」と三吉が言った。
「それどこじゃ無いぞや。まあ、俺と一緒に来て見よや」
 こうお種は寂しそうに笑って、庭伝いに横手の勝手口の方へ弟を連れて行った。以前土蔵の方へ通った石段を上ると、三吉は窪《くぼ》く掘下げられた崖《がけ》を眼下《め
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