ひえ》の芽が出ている。隅田川はその座敷からも見えた。伊豆石を積重ねた物揚場を隔てて、初夏の水が流れていた。
「そう、三吉叔父さんがいらしって下すったの」
と豊世は、夫の後に随《つ》いて、町から戻って来た。
「奥様、先程も一人御二階を見にいらしった方が御座いました」
と老婆《ばあさん》が豊世に言ったので、正太夫婦は叔父の方を見た。夫婦の眼は笑っていた。
川の見えるところに近く、三吉は正太と相対《さしむかい》に坐った。その時正太は苦しそうな眼付をして、生活を縮める為にここを立退《たちの》こうかとも思ったが、折角造作に金をかけて、風呂まで造って置いて、この楽しい住居《すまい》を見捨てるのも残念である、暫時《しばらく》二階を貸すことにした、と叔父に話した。
「どうしていらっしゃるかと思って、今日は家から歩いてやって来ました」と三吉が言った。「途中に芥子《けし》を鉢植にして売ってる家がありました。こんな町中にもあんな花が咲くか、そう思ってネ、めずらしく山の方のことまで思出した。ホラ、僕等が居た山家の近所には芥子畠《けしばたけ》なぞが有りましたからネ」
「叔父さん、私共ではこういうものを造りました」と豊世は叔父の後へ廻って、軒先の真綿の玉を指してみせた。「稗蒔《ひえまき》ですよ――往来を通る人が皆な妙な顔をして見て行きます」
正太は何を見ても侘《わび》しいという風であった。豊世に、「彼方《あっち》へいってお出《いで》」と眼で言わせて置いて、
「実は叔父さん、私の方から御宅へ伺おうと思っていたところなんです。未だ御話も致しませんでしたが、近いうちに私も名古屋へ参るつもりです。彼方《あちら》の方で、来ないか、と言ってくれる人が有りましてネ……まあ二三年、私も稽古《けいこ》のつもりで、彼方の株式仲間へ入って見ます」
「そいつは何よりだ」と三吉が頼もしそうに言った。
正太は心窃《こころひそ》かに活動を期するという様子をした。自分で作った日露戦争前後の相場表だの、名古屋から取寄せている新聞だのを、叔父に出して見せて、
「叔父さんからも御話がよく有りますから、今度は私もウンと研究して見ます。下手に周章《あわ》てない積りです。この通り、彼方《あちら》の株の高低にも毎日注意を払っています……『どうして、橋本は行《や》るぜ、彼はナカナカの者だぜ』――そう言って、是方《こっち》の連中なぞは皆な私に眼を着けてる……」
「それに、君、森彦さんは彼方へ行ってるしサ――何かにつけて相談してみるサ」
「そうです。森彦叔父さんと私とは、全く別方面ですから、仕事は違いますけれど……あの叔父さんも、いよいよ今度が最後の奮闘でしょう――私はそう思います――まあ、彼方へ出掛けて、あの叔父さんの働き振も見るんですネ」
「でも、あの兄貴も……変った道を歩いて行く人さネ。何を為《し》てるんだか家のものにまで解らない……それを平気でやってる……あそこは面白いナ」
「何かこう大きな事業《こと》をしそうな人だなんて、豊世なぞもよくそう言っています」
「あの兄貴は一生夢の破れない人だネ――あれで通す人だネ――しかし、ナカナカ感心なところが有るよ。お俊ちゃんの家なぞに対しては、よくあれまでに尽したよ。大抵の者ならイヤに成っちまう……」
豊世が貰い物だと言って、款待顔《もてなしがお》に羊羮《ようかん》なぞを切って来たので、二人は他の話に移った。
「ここまで来て、眺望《ながめ》の好い二階を見ないのも残念だ」という叔父を案内して、一寸《ちょっと》豊世は楼梯《はしごだん》を上った。何となく二階はガランとしていた。額だけ掛けてあった。三吉は川に向いた縁側の欄《てすり》のところへ出てみた。
「豊世さん、顔色が悪いじゃ有りませんか。どうかしましたかネ」
「すこし……でも、この節は宅もよく家に居てくれますよ……何事《なんに》も為ませんでも、家で御飯を食べてくれるのが私は何よりです……」
叔父と豊世とはこんな言葉を替《かわ》しながら、薄く緑色に濁った水の流れて行くのを望んだ。豊世は愁《うれ》わしげに立っていた。
「どうかしますと、私は……こう胸がキリキリと傷《いた》んで来まして……」
こう訴えるような豊世の顔をよく見て、間もなく三吉は正太の方へ引返した。
玄関の隅《すみ》には、正太が意匠した翫具《おもちゃ》の空箱が沢山積重ねてあった。郷里《くに》から取寄せた橋本の薬の看板も立掛けてあった。復た逢う約束をして、三吉は甥に別れた。
「正太さんを褒《ほ》めるのは貴方ばかりだ」
お雪が自分の家の二階で、夫に話しているところへ、勝手を知った豊世が階下《した》から声を掛けて上って来た。
「叔母さん、御免なさいよ。御断りも無しで入って来て――」
と豊世は親しげな調子で挨拶《あいさつ》した。
正太が
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