――そうしたら私は仕方が無いから、女髪結にでも成ろうかしら――」
夫婦は互に言ってみた。
名倉の老人は、母だけ先へ返して、自分一人、娘の家に残った。若い時から鍛えた身体だけあって、三吉の家から品川あたりへ歩く位のことは、何とも思っていなかった。疲れるということを知らなかった。朝は早く起きて、健脚にまかせて、市中到る処の町々、変りつつある道路、新しい橋、家、水道、普請中の工事なぞを見て廻った。東京も見尽したと老人は言っていた。
「でも、阿爺《おとっ》さんは、割合に歩かなく成りました――あれだけ年をとったんですネ」
とお雪は言った。
いよいよ老人も娘や孫に別れを告げて帰国する日が来た。※[#「※」は「○の中にナ」、191−4]の兄が連れて来てくれた下婢《おんな》に、留守居を頼んで置いて、三吉夫婦は老人と一緒に家を出た。子供は、種夫と新吉と二人だけ見送らせることにした。
「老爺《おじい》さんが彼方《あっち》へ御帰りなさるんだよ――種ちゃんも、新ちゃんも、サッサと早く歩きましょうネ」
とお雪は歩きながら子供に言って聞かせた。半町ばかり行ったところで、彼女は新吉を背中に乗せた。
老人と三吉は、時々町中に佇立《たたず》んで、子供の歩いて来るのを待った。幾羽となく空を飛んで来た鳥の群が、急に町の角を目がけて、一斉に舞い降りた。地を摺《す》るかと思うほど低いところへ来て、鳴いて、復た威勢よく舞い揚った。チリヂリバラバラに成った鳥は、思い思いの軒を指して飛んだ。
「最早|燕《つばめ》が来る頃に成りましたかネ」
と三吉は立って眺めた。
電車で上野の停車場《ステーション》まで乗って、一同は待合室に汽車の出る時を待った。老人はすこしも静止《じっと》していなかった。どうかすると三吉の前に立って、若い者のような声を出して笑った。
お雪の側には、二人の子供がキョロキョロした眼付をして、集って来る旅客を見ていた。老人はその方へ行った。かわるがわる子供の名を呼んで、
「皆な温順《おとな》しくしてお出――復た老爺《おじい》さんが御土産《おみや》を持って出て来ますぜ」
「名倉の老爺さんが復た御土産を持って来て下さるトサ」とお雪は子供に言い聞かせた。
「この老爺さんも、未だ出て来られる……」
こう老人はお雪を見て言って、復た老年らしい沈黙に返った。
発車の時間が来た。三吉夫婦はプラットフォムへと急いだ。
「種ちゃんも、新ちゃんも、老爺さんに左様ならするんだよ」
と三吉は列車の横に近く子供を連れて行った。お雪は新吉を抱上げて見せた。
白い髯《ひげ》の生えた老人の笑顔が二等室の窓から出た。老人は窓際につかまりながら、娘や孫の方をよく見たが、やがて自分の席に戻って、暗然と首を垂れた。駅夫は列車と見送人の間を馳《は》せ歩いた。重い車の廻転する音が起った。
「阿爺《おとっ》さんも――ひょっとすると、これが東京の見納めだネ」
と三吉は、妻と一緒に見送った後で、言った。
五月に入っても、未だ正太は遊んでいた。森彦の方は、新しい事業に着手すると言って、勇んで名古屋へ発《た》って行った。
「正太さんもどうか成らないか。ああして遊ばせて置くのは、可惜《おし》いものだ」と三吉は心配そうにお雪に話して、甥《おい》の様子を見る為に、駒形の方へ出掛けた。
例の石垣の下まで、三吉は歩いた。正太の家には、往来から好く見えるところに、「貸二階」とした札が出してある。何となく家の様子が寂しい。三吉が石段を上って行くと、顔を出した老婆《ばあさん》まで張合の無さそうな様子をしていた。
正太夫婦は揃《そろ》って町へ買物に出掛けた時であった。程なく帰るであろう、という老婆を相手にして、しばらく三吉は時を送った。二階は貸すと見えて、種々な道具が下座敷へ来ている。玻璃《ガラス》障子のところへ寄せて、正太の机が移してあって、その上には石菖蒲《せきしょうぶ》の鉢《はち》なぞも見える。水色のカアテンも色の褪《あ》せたまま掛っている。
老婆は茶を勧めながら、
「是方《こちら》へ私が御奉公に上りました時は、まあこんな仲の好い御夫婦もあるものでしょうか、とそう思いまして御座いますよ。段々御様子を伺って見ますと……私はすっかり奥様の方に附いて了《しま》いました。そりゃ、貴方、女はどう致したって、女の味方に成りますもの……」
この苦労した人は、夫婦の間に板挾《いたばさ》みに成ったという風で、物静かな調子で話した。主人思いの様子は、奉公する人とも見えなかった。
「でも、是方の旦那様も、真実《ほんとう》に好い御方で御座いますよ」
と復た老婆が言った。
三吉は玻璃障子のところへ行って、眺めた。軒先には、豊世の意匠と見えて、真綿に包んだ玉が釣《つる》してある。その真綿の間から、青々とした稗《
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