名古屋へ発ってから、こうして豊世はよく訪ねて来るように成った。長いことお雪は豊世に対して、好嫌《すききらい》の多い女の眼で見ていた。「豊世さんも好いけれど……」とかなんとか言っていたものであった。正太と小金の関係を知ってから、急にお雪は豊世の味方をするように成った。豊世の方でも、「叔母さん、叔母さん」と言って、旅にある夫の噂《うわさ》だの、留守居の侘《わび》しさだの、二階を貸した女の謡の師匠の内幕だのを話しに来る。正太が発《た》つ、一月あまり経つと、最早町では青梅売の声がする。ジメジメとした、人の気を腐らせるような陽気は、余計に豊世を静止《じっと》さして置かなかった。
「豊世さん――正太さんの許から便りが有りましたぜ」
 と三吉に言われて、豊世は叔父の方へ向いた。風呂敷包の中から小説なぞを取出して、それを傍に居る叔母へ返した。
 三吉は笑いながら、「何か貴方は心細いようなことを名古屋へ書いて遣《や》りましたネ」
「何とか叔父さんの許へ言って参りましたか」
「正太さんの手紙に、『私は未だ若輩の積りで、これから大に遣ろうと思ってるのに、妻《さい》は最早|老《おい》に入りつつあるか……そう思うと、何だか感傷の情に堪《た》えない』――なんて」 
 それを聞いて、豊世はお雪と微笑《えみ》を換《かわ》した。名古屋から送るべき筈《はず》の金も届かないことを、心細そうに叔父叔母の前で話した。
 二階から見える町家の屋根、窓なぞで、湿っていないものは無かった。空には見えない雨が降っていた。三人は、水底《みなそこ》を望んでいるような、忍耐力《こらえじょう》の無い眼付をして、時々話を止《や》めては、一緒に空の方を見た。どうかすると、遠く濡《ぬ》れた鳥が通る。それが泳いで行く魚の影のように見える。
「豊世さん――一体貴方は向島のことをどう思ってるんですか」三吉が切出した。
「向島ですか……」と豊世は切ないという眼付をして、「何だか私は……宅に捨てられるような気がして成りませんわ……」
「馬鹿な――」
「でも、叔父さんなぞは御存《ごぞんじ》ないでしょうが、宅でまだ川向に居ました時分――丁度私は一時|郷里《くに》へ帰りました時――向島が私の留守へ訪ねて来て、遅いから泊めてくれと言ったそうです。後で私はそのことを先《せん》の老婆《ばあや》から聞きました。よく図々《ずうずう》しくも、私の蒲団《ふとん》なぞに眠られたものだと思いましたよ。そればかりじゃありません、宅で向島親子を芝居に連れてく約束をして、のッぴきならぬ交際《つきあい》だから金を作れと言うじゃ有りませんか。私はそんな金を作るのはイヤですッて、そう断りました。すると、宅が癇癪《かんしゃく》を起して、いきなり私を……叔父さん、私は擲《なぐ》られた揚句に、自分の着物まで質に入れて……」
 豊世はもう語れなかった。瀟洒《しょうしゃ》な襦袢《じゅばん》の袖を出して、思わず流れて来る涙を拭《ぬぐ》った。
「叔父さん――真実《ほんと》に教えて下さいませんか――どうしたら男の方の気に入るんでしょうねえ」
 と復た豊世は力を入れて、真実|男性《おとこ》の要求を聞こうとするように、キッと叔父を見た。
「どうしたら気に入るなんて、私にはそんなことは言えません」と三吉は頭を垂れた。
「でも、ねえ、叔母さん――」と豊世はお雪に。
「亭主を離れて観るより外に仕方が無いでしょう」と三吉はどうすることも出来ないような語気で言った。
「そんなら、叔父さんなんか、どういう気分の女でしたら面白いと御思いなさるんですか」
「そうですネ」と三吉は笑って、「正直言うと、これはと思うような人は無いものですネ……昔の女の書いたものを見ると、でも面白そうな人もある。八月のさかりに風通しの好いところへ花莚《はなむしろ》を敷いて、薄化粧でもして、サッパリとした物を着ながら独《ひと》りで寝転《ねころ》んで見たなんて――私はそういう人が面白いと思います」
 豊世とお雪は顔を見合せた。


 子供の喧嘩《けんか》する声が起った。それを聞きつけて、お雪は豊世と一緒に階下《した》へ降りた。茶の用意が出来たと言われて、三吉も下座敷へ飲みに来た。
「馬鹿野郎!」
 いきなり種夫はそいつを父へ浴せ掛けた。
「種ちゃんは誰をつかまえても『馬鹿野郎』だ」と三吉は子供を見て笑った。「でも、お前の『馬鹿野郎』は可愛らしい『馬鹿野郎』だよ」
「種ちゃんの口癖に成って了いました」とお雪は豊世に言って聞かせた。「御客のある時なぞは、真実《ほんと》に困りますよ」
「豊世さん、煙草はいかが」
 と三吉は巻煙草を取出して、女の客や妻の前でウマそうに燻《ふか》した。
「一本頂きましょうか」と豊世は手を出した。「自分じゃそう吸いたいとも思いませんが、他様《ひとさま》が燻していらっしゃると、
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