附いていられると可《い》いけれど――叔父さんは、お前、お金の心配もしなけりゃ成らん」
 こんなことを言って出て行った三吉は、やがて用達から戻って来て、復《ま》た部屋に倒れた。何時の間にか、彼は死んだ人のように成った。
「母さん――」
 こういう呼声に気が付いて、三吉が我に返った頃は、遅かった。彼は夕飯後、しばらく姪と病院の方の噂をして、その晩も早く寝床に入ったが、自分で何時間ほど眠ったかということは知らなかった。次の部屋には、姪がよく寝入っている。身体を動かさずにいると、可恐《おそろ》しい子供の呼声が耳の底の方で聞える。「母さん、母さん、母さん――母さんちゃん――ちゃん――ちゃん――ちゃん」宛然《まるで》、気が狂《ちが》ったような声だ……それは三吉の耳について了《しま》って、何処に居ても頭脳《あたま》へ響けるように聞えた。
 夢のように、門を叩《たた》く音がした。
「小泉さん、電報!」
 むっくと三吉は跳起《はねお》きた。表の戸を開けて、受取って見ると、病院から打って寄《よこ》したもので、「ミヤクハゲシ、スグコイ」とある。お延を起す為に、三吉は姪の寝ている方へ行った。この娘は一度「ハイ」と返事をして、復た寝て了った。
「オイ、オイ、病院から電報が来たよ」
「あれ、真実《ほんと》かなし」とお延は田舎訛《いなかなまり》で言って、床の上に起直った。「私は夢でも見たかと思った」
「叔父さんは直に仕度をして出掛る。気の毒だが、お前、車屋まで行って来ておくれ」
 と叔父に言われて、お延は眼を擦《こす》り擦り出て行った。
 三吉が家の外に出て、車を待つ頃は、まだ電車は有るらしかった。稲荷祭《いなりまつり》の晩で、新宿の方の空は明るい。遠く犬の吠《ほ》える声も聞える。そのうちに車が来た。三吉は新宿まで乗って、それから電車で行くことにした。
「延、お前は独《ひと》りで大丈夫かネ」
 と三吉は留守を頼んで置いて出掛けた。お延は戸を閉めて入った。冷い寝床へ潜《もぐ》り込んでからも、種々なことを小さな胸に想像してみた時は、この娘もぶるぶる震えた。叔父が新宿あたりへ行き着いたかと思われる頃には、ポツポツ板屋根の上へ雨の来る音がした。
 復た家の内は寂寞《せきばく》に返った。


 車が門の前で停《とま》った。正太はそれから飛降りて、閉めてあった扉《と》を押した。「延ちゃん、皆な帰って来ましたよ」正太が入口の格子戸を開けて呼んだ。それを聞きつけて、お延は周章《あわ》てて出た。丁度森彦も来合せていて、そこへ顔を顕《あら》わした。
「到頭房もいけなかったかい」
「ええ、今朝……払暁《あけがた》に息を引取ったそうです……皆な、今、そこへ来ます」
 森彦と正太とは、こう言合って、互に顔を見合せた。
 間もなく三台の車が停った。お雪は乳呑児《ちのみご》を抱いて二週間目で自分の家へ帰って来た。下婢《おんな》も荷物と一緒に車を降りた。つづいて、三吉が一番|年長《うえ》の兄の娘、お俊も、降りた。
 三吉の車は一番後に成った。日の映《あた》った往来には、お房の遊友達が立留って、ささやき合ったり、眺《なが》めたりしていた。黒い幌《ほろ》を掛けて静かに引いて来た車は、その娘達の見ている前で停った。
「叔父さん、手伝いましょうか」
 と正太が車の側へ寄った。
 お房は茶色の肩掛に包まれたまま、父の手に抱かれて来た。グタリとした子供の死体を、三吉は車から抱下《だきおろ》して、門の内へ運んだ。
 仏壇のある中の部屋の隅には、人々が集って、お房の為に床を用意した。そこへ冷くなった子供を寝かした。顔は白い布で掩《おお》うた。
「ホウ、こうして見ると、思いの外《ほか》大きなものだ……どうだネ、膝《ひざ》は曲げて遣《や》らなくても好かろうか」と森彦が注意した。
「子供のことですから、このままで棺に納まりましょう」と正太を眺めた。
「でも、すこし曲げて置いた方が好いかも知れません」
 こう三吉は言ってみて、娘の膝を立てるようにさせた。氷のようなお房の足は最早自由に成らなかった。それを無理に折曲げた。お俊やお延は、水だの花だのを枕頭《まくらもと》へ運んだ。丁度、お雪が二番目の妹のお愛も、学校の寄宿舎から訪ねて来た。この娘は姉の傍へ寄って、一緒に成って泣いた。
 午後には、裏の女教師が勝手口から上って、子供の死顔を見に来た。
「真実《ほんと》に、何とも申上げようが御座いません……小泉さんは、まだそれでも男だから宜《よ》う御座んすが、こちらの叔母さんが可哀そうです」と女教師は言った。
 お房が病んだ熱は、腸から来たもので無くて、実際は脳膜炎の為であった。それをお雪は女教師に話し聞かせた。白痴児《はくちじ》として生き残るよりは、あるいはこの方が勝《まし》かも知れない、と人々は言合った。
 黄色く日中
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