並んだところへ出た。そこは三吉がよく散歩に行く河岸《かし》である。石垣の下には神田川が流れている。繁華な町中に、こんな静かな場処もあるかと思われる位で、薄く曇った二月末の日が黒ずんだ水に映っていた。
船から河岸へ通う物揚場の石段の上には、切石が袖垣《そでがき》のように積重ねてある。その端には鉄の鎖が繋《つな》いである。二人はこの石に倚凭《よりかか》った。満洲の方の噂《うわさ》が出た。三吉は思いやるように、
「両雄相会して、酒でも酌《く》むような時には――さぞ感慨に堪《た》えないことだろうナ」
正太も思いやるような眼付をして、足許《あしもと》に遊んでいる鶏を見た。
水に臨んだ柳並木は未だ枯々として、蕭散《しょうさん》な感じを与える。三吉はその枝の細く垂下った下を、あちこちと歩いた。やがて正太の方へ引返して来た。
「正太さん、君の仕事の方はどうなんですか――未だ遊びですか」
こう言って、石の上に巻煙草を取出して、それを正太にも勧めた。
正太は沮喪《そそう》したように笑いながら、「折角、好い口があって、その店へ入るばかりに成ったところが……広田が裏から行って私の邪魔をした。その方もオジャンでサ」
「そんな人の悪いことを為《す》るかねえ。手を携えてやった味方同志じゃないか」
「そりゃ、叔父さん、相場師の社会と来たら、実に酷《ひど》いものです。同輩を陥入《おとしい》れることなぞは、何とも思ってやしません。手の裏を反《かえ》すようなものです……苟《いやし》くも自己の利益に成るような事なら、何でも行《や》ります……自分が手柄をした時に、そいつを誇ること、他《ひと》の功名を嫉《ねた》むこと、それから他《ひと》の失敗を冷笑すること――親子の間柄でも容赦はない……相場師の神経質と嫉妬心《しっとしん》と来たら、恐らく芸術家以上でしょう。」
正太は叔父の心当りの人で、もし兜町《かぶとちょう》に関係のある人が有らば、紹介してくれ、心掛けて置いてくれ、こんなことまで頼んで置いて、叔父と一緒に石段の傍を離れた。
二人は河口の方へ静かに歩るいて行った。橋の畔《たもと》へ出ると、神田川の水が落合うところで、歌舞歓楽の区域の一角が水の方へ突出て居る。その辺は正太にとっての交際場裏で、よく客を連れては遊興にやって来たところだ。「橋本さん」と言えば、可成《かなり》顔が売れたものだ。「しばらく来ないな――」と正太は呟《つぶや》きながら、いくらか勾配のある道を河口の方へ下りた。
隅田川《すみだがわ》が見える。白い、可憐《かれん》な都鳥が飛んでいる。川上の方に見える対岸の町々、煙突の煙なぞが、濁った空気を通して、ゴチャゴチャ二人の眼に映った。
「河の香《におい》からして変って来た。往時《むかし》の隅田川では無いネ」
と三吉は眺め入った。
岸について両国の方へ折れ曲って行くと、小さな公園の前あたりには、種々な人が往《い》ったり来たりしている。男と女の連が幾組となく二人の前を通る。
「正太さん、君は女を見てこの節どんな風に考えるネ」
「さあねえ――」
「何だか僕は……女を見ると苦しく成って来る」
こう話し話し、三吉は正太と並んで、青物市場などのあたりから、浜町河岸の方へ歩いて行った。対岸には大きな煙突が立った。昔の深川風の町々は埋立地の陰に隠れた。正太は川向に住んだ時のことを思出すという風で、あの家へはよく榊《さかき》がやって来て、壮《さか》んに気焔《きえん》を吐いたことなどを言出した。
その時、彼は岸に近く添うて歩きながら、
「榊君と言えば、先生も引込《ひっこみ》きりか……あれで、叔父さん、榊君の遊び方と私の遊び方とは全然《まるっきり》違うんです……先生の恋には、選択は無い。非常に物慾の壮《さか》んな人なんですネ……」
電車が両国の方から恐しい響をさせてやって来たので、しばらく正太の話は途切れた。やがて、彼は微笑《ほほえ》んで、
「そこへ行くと、私は選む……一流でないものは、妓《おんな》でも話せないような気がする……私は交際《つきあい》で引手茶屋なぞへ行きましても、クダラナい女なぞを相手にして、騒ぐ気には成れません。隣室《となり》へ酒を出して置いて、私は独《ひと》りで寝転《ねころ》びながら本なぞを読みます。すると茶屋の姉さんが『橋本さん、貴方は妙な方ですネ』なんて……」
二人は電車の音のしないところへ出た。その辺は直樹の家に近かった。昔時《むかし》、直樹の父親が、釣竿《つりざお》を手にしては二町ばかりある家の方からやって来て、その辺の柳並木の陰で、僅《わず》かの閑《ひま》を自分のものとして楽んだものであった。その人が腰掛けた石も、河岸の並木も大抵どうか成って了った。柳が二三本残った。三吉と正太は立って眺めた。潮が沖の方から溢《あふ》れて来る時
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