考え迷った。
お雪は、勉が留守だったと言って、旅舎《やどや》の方から戻って来た。
翌日《あくるひ》、勉からは、三吉とお雪の両名宛で、葉書が届いた。それには、子供への土産の礼を述べ、折角姉上が訪ねてくれたのに、不在で失礼した、これから郷里へ向う、母上にも宜しく、としてあった。
十月は末に成って、三吉は長い風邪に侵された。名倉の母は未だ逗留していた。熱のある夫の為に、お雪は風薬だの、食物《くいもの》だのをこしらえた。それを二階に寝ている夫の枕許《まくらもと》へ運んだ。時には、子供が随《つ》いて上って来て、母の肩につかまったり、手を引いたりして戯れた。
「叔父さんは御風邪《おかぜ》ですか」
正太が階梯《はしごだん》を上って来た。三吉は快《よ》くなりかけた時で、厚いドテラを引掛けたまま、床の上に起直った。
「正太さん、失礼します」と三吉は坊主枕を膝《ひざ》の上に乗せて言った。
「御無沙汰《ごぶさた》しておりますが、豊世さんも御変りは有りませんか」
こうお雪は正太に尋ねて、元気づいた夫の笑声を聞きながら階下へ降りて行った。
「どうです、兜町の方は」と三吉は正太が言わない先に言出した。「何とか言いましたネ、広田サ……今度の店の方はどうですかネ」
正太は寂しそうに笑った。「ええ、まあ暖簾《のれん》が掛けてあるというばかり。それに、叔父さん、店員は大抵去りましたし、あの店も小さいところへ移りました……塩瀬の没落以来、もう昔日の面影《おもかげ》はありません」
「でも、君は出てはいるんでしょう」
「この節は、遊びです。実は此頃《こないだ》、広田の店の為に、一策を立てて見ました。まあ、乗るか反《そ》るか、一つやッつけろと言うんで。あるところへ一日の中に九|度《たび》も車で駆付けさして、しかも雨のドシャ降りの日に、この店を活《い》かすなり殺すなりどうなりともしてくれ、そう言って私が転《ころ》がり込んで行った……宛然《まるで》ユスリですネ……どうしても先方《さき》で逢わない。すると、広田の店の方で、どうも橋本は凄《すご》いことをするなんて、そんな裏切者が出て来る……胆《きも》ッ玉の小さな男ばかり揃《そろ》ってるんでサ。あんなことで何が出来るもんですか。私も何卒《どうか》して、早く新しい立場を作らんけりゃ成らん……」
正太の眼は物凄く輝いた。同時に、何となく萎《しお》れた色を見せた。やがて彼は袂《たもと》を探って、鉛の入った繭《まゆ》を取出した。仕事もなく、徒然《つれづれ》なまま、この繭を土台にして、慰みに子供の玩具《おもちゃ》を考案している。こんなことを叔父に語った。正太は紀文が遺《のこ》したという翫具《おもちゃ》の話なぞを引いて、さすがに風雅な人は面白いところが有る、とも言った。
日の光は町々の屋根を掠《かす》めて、部屋の内へ射込んでいた。臥床《とこ》の上にツクネンとしている叔父の前で、正太はその鉛の入った繭を転がして見せた。
夫は家を寺院と観念しても、妻はもとより尼では無かった。
そればかりでは無い、若い時から落魄《らくはく》の苦痛までも嘗《な》めて来た三吉には、薬を飲ませ、物を食わせる人の情を思わずにいられなかった。彼が臥床《とこ》を離れる頃には、最早|還俗《げんぞく》して了った。彼の精神《こころ》は激しく動揺した。屈辱をも感じた。
兄妹《きょうだい》の愛――そんな風に彼の思想《かんがえ》は変って行った。彼は自分の妹としてお雪のことを考えようと思った。
十一月の空気のすこし暗い日のことであった。めずらしく三吉はお雪を連れて、町の方へ買物に出た。お雪は紺色のコートをちょっとしたヨソイキの着物の上に着て、手袋をはめながら夫に随《つ》いて行った。「まあ、父さんには無いことだ――御天気でも変りゃしないか」とお雪は眼で言わせた。
ある町へ出た。途中で三吉は立ち留って、
「オイ、もうすこしシャンとしてお歩きよ……そんな可恥《はずか》しいような容子をして歩かないで。是方《こっち》がキマリが悪いや」
「だって、私には……」
とお雪はすこし顔を紅めた。
買物した後、三吉はお雪をある洋食屋の二階へ案内した。他に客も見えなかった。窓に近い食卓を選んで、三吉は椅子に腰掛けた。お雪も手袋を取って、よく働いた女らしい手を、白い食卓の布の上に置いた。
「ここですか、貴方の贔顧《ひいき》にしてる家は」
とお雪は言って、花瓶《かびん》だの、鏡だの、古風な油絵の額だので飾ってある食堂の内を見廻した。彼女は又、玻璃窓《ガラスまど》の方へも立って行って、そこから見える町々の屋根などを眺めた。
白い上衣《うわぎ》を着けたボオイが皿を運んで来た。三吉は匙《さじ》を取上げながら、妻の顔を眺めて、
「どうだネ。お前の旧《ふる》い友達で、誰か可羨《うらやま》
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