お雪はどうしたでしょう。こんなに遅くなっても、未だ帰りません。一寸私はそこいらまで行って見て来ます」
こう名倉の母に言って置いて、三吉は直樹の家まで妻を迎えに行った。
橋の畔《たもと》で彼はお雪の帰って来るのに行き逢った。
「父さん」
と声を掛けられて、三吉はやや安心したように、
「心配したぜ。こんなに遅くまで話し込んでるやつが有るもんか。もうすこしで、俺は直樹さんの家まで行っちまうところだった」
お雪は夫に寄添った。こうして二人ぎりで一緒に歩くということは、夫婦にはめったに無かった。三吉は妻を連れて、暗い道を静かに考深く歩いて帰った。
「――『一体お前はどういう積りで俺の許《ところ》へ嫁に来た』なんて、よく父さんがそんなことを私に言いますよ」
「へえ、父さんはそういう心でいるのかねえ」
こうお雪と母親とで話しているところへ、勉が商人風の服装《なり》をして、表から入って来た。勉は大阪まで行って来たことから、東京での商用も弁じた、荷積も終った、明日は帰国の途に就《つ》くことなぞを話した。この人とお雪の妹との間には、最早《もう》種夫と同年の子供がある。
「父さん、※[#「※」は「ひとがしら+ナ」、164−15]がお別れに参りました。一寸逢ってやって下さい」
と名倉の母が階梯《はしごだん》の下から呼んだ。
三吉も談話《はなし》の仲間に入った。快活な世慣れた勉の口から、三吉は種々な商人の生活を聞くことを楽んだ。勉もよく話した。
勉とお雪の愛。それを知って、三吉が二人を許してから、可成《かなり》長い月日が経つ。三吉は勉に交際《つきあ》ってみて、好くその気心も解った。以前のことは最早昔話のように思われるまでに成っていた。制《おさ》え難い不安の念につれて、幾年となく忘れられていた苦痛が復《ま》た起って来た。男同志さしむかいでいれば、三吉の方でも快心《こころよ》く話せる。そこへお雪が入って来ると、妙に彼は笑えなかった。
勉は三吉の蒼《あお》ざめた顔を眺《なが》めて、
「しかし、小泉さんも御多忙《おいそが》しいでしょう」
「ええ、ええ、多忙《いそが》しい人です」と母は引取って、やがて三吉の方を見て、「父さん――貴方は御仕事の方を成すって下さい。何卒《どうぞ》お構いなく」
名倉の母は茶を入れかえて、帰国するという養子にすすめ、茶の好きな娘の亭主にも飲ませた。
間もなく勉は旅舎《やどや》の方へ戻って行った。三吉は勉の子供へと思って、土産《みやげ》にする物を町から買求めて来た。それを持って妻の前に立った。
「父さん、何物《なに》か――」と種夫は見つけて、父に縋《すが》りつく。
「お前のお土産《みや》じゃ無いよ。あっちの叔父さんに進《あ》げるんだよ」と三吉は子供に言い聞かせて、やがてお雪に、「これはお前に頼むぜ――俺のかわりに、後で勉さんの旅舎まで行って来ておくれ」
「そんなことをしなくッても宜う御座んすに」
と母は顔を出して言った。
夕食の後、三吉は二階に上って、机に対《むか》って見た。「馬鹿」と彼は自分で自分を叱った。「どうでも可いじゃないか、そんな事は……傍観者で沢山だ」こう復た自分に言って見た。不思議な本能の力は、しかし彼を唯《ただ》傍観させては置かなかった。何時《いつ》の間にか、彼はお雪が勉の旅舎に訪ねて行く時のことを想像した。彼女と勉との交換《とりかわ》す言葉を想像した。
「どうしたというんだ、一体俺は……」
思い屈したような眼付をして、彼は部屋を見廻した。
その時、「君は嫉《ねた》んだことが有るか……」こうある仏蘭西《フランス》人の物語の中にあった言葉を胸に浮べて、三吉は心に悲しく思った。男が嫉む――それが自分のことだと感じた時は、彼は自分の性質を恥じずにいられなかった。許した、許した、とは言ったものの、未だ真実《ほんとう》に勉やお雪を許してはいなかった、とも思って来た。
階下《した》では、三人の子供も寝た。お雪は仕度が出来たと見えて階梯《はしごだん》のところへ来て声を掛けた。
「じゃ、父さん、一寸行って参ります」
表の木戸を開けていそいそと出て行く妻の様子は、二階に居てよく知れた。三吉は熟《じっ》と耳を澄まして、お雪の下駄《げた》の音を聞いた。
震える自分の身体《からだ》を見ながら、三吉は妻の帰りを待っていた。人が離縁を思うのもこういう時だろう。こんなことを悲しく考えて、終《しまい》に、今まで起したことも無い思想《かんがえ》に落ちて行った。僧侶《ぼうさん》のような禁欲の生活――寂しい寂しい生活――しかし、それより外に、養うべき妻子を養いながら、同時にこの苦痛を忘れるような方法は先ず見当らなかった。このまま家を寺院|精舎《しょうじゃ》と観る。出来ない相談とも思われなかった。三吉はその道を行こうと
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