「見たって可いじゃないか」と三吉は串談《じょうだん》らしく。
「そんなに見なくたって宜う御座んす」
 とお雪が言ったので、娘達はクスクス笑った。
「どうだ、昨夜俺は起きて、お前達の知らない時に蚊を焼いたが……皆なよく寝ていた」と言って、三吉は戯れるような口調で、「叔父さんは延の寝言まで聞いちゃった」
「嘘《うそ》、叔父さん、私が寝言なんか言うもんですか」とお延が笑う。
「私は、兄さんが蚊を焼きにいらしったのを知ってたけれど……黙って寝た振をしていた」とお幾も笑った。
 間もなく三吉は独りで自分の部屋へ上って行った。
 二階――そこは三吉が山から持って来た机の置いてあるところで。そこから坐りながら町々の屋根や、水に近い空なぞを望むことが出来る。そこから階下《した》に居る人達の声を手に取るように聞くことも出来る。彼が仕事で夢中に成っている時は、夜遅くまで洋燈《ランプ》が点いて、近所の家々で寝て了《しま》う頃にも、未だそこからは燈火《あかり》が泄《も》れていることもある。
 階下から聞える声は、とは言え三吉の心を静かにしては置かなかった。男と女で争うなぞはクダラナいことだ、こう思いながら、知らず知らず彼はその中へ捲込《まきこ》まれて行った。何時《いつ》まで経ったら、夫と妻の心の顔が真実《ほんとう》に合う日が有るだろう。そんなことを考えるさえ、彼は厭《いと》わしそうな眼付をした。
 夫としての三吉は、妻の変らない保護者で有った。しかし好い話相手では無かった。妙に、彼はお雪の前に長く坐っていられなかった。すこし長く妻と話をして居ると、もう彼は退屈して了った……こういう性分の三吉に比べると、もっと心易い人が世の中にはある。そういう人が階下へ来て、皆なを笑わせることも有る。それを三吉は二階から聞く度《たび》に、侘《わび》しい心を起した。どうかすると、彼は階梯《はしごだん》を馳《か》け降りるようにして、そういう人の手から自分の子供を抱取ることも有った。
「人の細君をつかまえて、雪さんなどと平気で書いて寄す男もある」
 と三吉は思ってみた。そういう人が妻には親切な面白い人のように言われても、その無邪気さを三吉はどうすることも出来なかった。
 すこしの言葉の争いから、お雪は鬱《ふさ》いで了うことが多かった。すると、三吉は二階から下りて、時には妻の前に手を突いて、「何卒《どうか》まあ宜敷|御頼申《おたのもう》します」と詫《わ》びるように言った。


 お俊の結婚がある頃は、三吉の家では名倉の母を迎えた。大きな名倉の家族に取って無くてならない調和者はこの人であった。「橋本の姉さんと、名倉の母親さんとは、丁度両方の端に居る人だ」と三吉はよくお雪に言って聞かせるが、この母は多くの養子に対してばかりでなく、娘を嫁《かたづ》けた先の三吉に対しても細《こまか》いところまで行き届く。倦《う》まず立働く人で、お雪の傍に居ても直に眼鏡《めがね》を掛けて、孫の為に継物したり、娘の仕事を手伝ったりした。
 丁度、勉も商用で上京していた。勉の旅舎《やどや》はさ程離れてもいなかったし、それに名倉の母が逗留《とうりゅう》中なので、用達《ようたし》の序《ついで》に来ては三吉の家へ寄った。お雪が母親の周囲《まわり》には賑《にぎや》かな話声が絶えなかった。
 こういう中で、とかく三吉は沈み勝ちであった。賢い名倉の母に隠れるようにして、日の暮れる頃には町の方へ歩きに出た。何処《どこ》へ行こう。何を見よう。別に彼はそんな目的《めあて》があるでもなかった。唯、家から飛出して行って、路を通る往来《ゆきき》の人の中に交った。彼の足は電車の通う橋の方へ向き易《やす》かった。そこから、黄昏時《たそがれどき》の空気、チラチラ点く燈火《あかり》、並木道、ゴチャゴチャした町の建物なぞを眺めては帰って来た。家の近くには、人の集る寄席《よせ》がある。そこへも彼はよく独りで出掛けて行った。芸人が高座でする毎時《いつも》きまりきった色話だとか、仮白《こわいろ》だとかが、それほど彼の耳を慰めるでも無かった。彼は好きな巻煙草を燻《ふか》しながら、後の方の隠れた場所に座蒲団《ざぶとん》を敷いて、独りで黙って坐った。そして、知らない人の中に居て、言い難き悲哀《かなしみ》を忘れようとした。
 名倉の母は長く逗留していた。その間に、お雪は留守番を母に頼んで置いて、旧《むかし》の学校友達だの、豊世の家だのを訪問して歩いた。子持で、しかも年寄のない家に居ては、こういう機会がお雪には少なかったからで。三吉は妻の外出にすら、何とも言ってみようの無い不安な感じを抱《いだ》くように成った。
 ある晩、お雪は直樹の家を訪ねると言って出て行った。十時過ぐる頃まで帰って来なかった。妙に三吉は心配に成って来た。
「母親《おっか》さん――
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