、正太と三吉と二人残った。
 三吉は笑いながら「向島もどうしましたかネ」
 と小金の噂なぞをして見た。二人の間には、向島で意味が通じた。
「豊世のやつも、気ばかり揉《も》んで――弱っちまう」と正太は歎息するように。
「いっそ、向島に逢わせてみたらどうです」と三吉は戯れて言った。
「いえ、叔父さん、既に最早逢わせてみたんです。駄目、駄目、それほど豊世がサバケていないんですからネ。土手のある待合でした。そこへ豊世を連れて行くと、向島も来て変に思ったと見えて、容易に顔を出しませんでした。あそこで、豊世が一つ笑ってくれると可いんでサ……」
「そりゃ、君、笑えないサ。女同志だもの」
「すると、さすがは商売人だ。人が悪いや。帰りに向島が車を二台あつらえて、わざわざ二人乗の方へ豊世と私を乗せて、自分は一人乗でそこいらまで送って来ました……後で、豊世の言草が好いじゃ有りませんか、『もっと私は凄《すご》い女かなんかと思っていた、貴方はあんなのが好いんですか』ッて……しかしネ、叔父さん、色に持つなら私はああいう温順《おとな》しいのを選びますよ。そのかわり、取巻にはどんな凄いんでも……」
 紅や薄紫の花火の色が、夜の空に映ったり消えたりした。二人が腰掛けている涼台から、その光を望むことが出来た。三吉は、多勢子供を失ってから、気に成るという風で、時々自分の家の内を覗《のぞ》きに行って、それから復《ま》た正太の話を聞きに来た。
 どうかすると、三吉の心は空の方へ行った。半ば独語《ひとりごと》のように、
「家というものはどうしてこう煩《わずらわ》しいもんでしょう。僕のところなぞは、もうすこしウマく行きそうなものだがナア……」
 こう正太に話して聞かせた。
 そのうちに、豊世やお雪は手を引き合いながら、明るい軒燈《ガス》の影を帰って来た。二人とも下町風の髪を結って、丁度背も同じ程の高さである。お雪は三十を一つ越し、豊世もやがて三十に近かった。お雪が堅肥りのした肩や、乳の張った胸のあたりに比べると、豊世の方はやや痩《や》せていたが、それでも体格の女らしく発達したことは、二人ともよく似ていた。二人は話し話し涼台の方へ近《ちかづ》いた。
 間もなく娘達も手を引いて帰って来た。私語《ささや》く声、軽く笑う声が、そこにも、ここにも起った。知らない男や女は幾群となく皆なの側を通過ぎた。
 仕掛花火も終った頃、三吉は正太と連立って、もう一遍橋の畔《たもと》まで出て見た。提灯《ちょうちん》や万燈《まんどう》を点《つ》けて帰って行く舟を見ると、中には兜町方面の店印をも数えることが出来る。急に正太は意気の銷沈《しょうちん》を感じた。叔父と一緒に引返した。


 遅く成ったので、花火を見に来た娘達は分れて泊ることに成った。お俊とお絹は正太夫婦に連れられて行った。三吉の家には、お延、お幾が残った。
 町中の夏の夜。郊外では四月《よつき》五月《いつつき》も釣る蚊帳《かや》が、ここでは二十日か、三十日位しか要《い》らない。でも、毎年のように蚊が増《ふ》えた。その晩も皆な蚊帳の内へ入った。
 ふと、三吉が眼を覚ました頃は、家のものは寝静まっていた。蚊の声がウルサく耳について、しばらく彼は眠られなかった。枕頭《まくらもと》の方では、乳臭い子供の香《におい》をたずねると見え、幾羽となく集って来ていた。蚊帳の内にも飛んでいた。三吉は床を離れた。蝋燭《ろうそく》とマッチを探って来て、火を点《とも》した。妻子《つまこ》はいずれもよく寝ていた。緑色の麻蚊帳が明るく映っても、目を覚まして声を掛けるものは無かった。
「種ちゃんはあんなところへ行って、転《ころ》がってる――仕様が無いナア、皆な寝相《ねぞう》が悪くて」
 こう三吉は、叱《しか》るように言って見て、あちこちと子供の上を跨《また》いで歩いた。
 蚊を焼きながら、三吉はお雪の枕許《まくらもと》へ来た。まだお雪は知らずに寝ていた。見ると、何等《なん》の記憶に苦むということも無いような顔付をして、乳呑児の頭の方へ無心に母らしい手を延ばしながら、静かに横に成っていた。三吉は燭台《しょくだい》を妻の寝顔に寄せた。そして、お雪の心を読もうとするような眼付をして、猶《なお》よく見た。何物《なんに》も変ったものが蝋燭の光に映らなかった……深い眠はお雪の身体を支配しているらしかった。顔面《かお》のどの部分でも、眠っていないところは無かった。白い腕までも夢を見ていた。
 蚊帳の外まで燭台を持って廻った後、三吉は火を吹き消した。復た自分の床に入って、枕に就《つ》いた。
 翌朝《よくあさ》は、お延やお幾が種夫を間に入れて、三吉夫婦と一緒に食事した。新吉もその傍で、下婢《おんな》に食べさせて貰った。
「いやです、父さん――人の顔をジロジロ見て」とお雪は食いながら言った
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