た。
「三吉――もう俺も親類廻りは済ましたし、是頃《こないだ》の晩のようなことが有ると可恐《おそろ》しいで、サッサと郷里《くに》の方へ帰るわい」
こう話しているところへ、お仙も来て、名残《なごり》惜しそうに叔父の方を見たり、二階から見える町々の光景《さま》などを眺めたりした。
「なあ、お仙」とお種は娘の方を見て、「三吉叔父さんにも御目に掛ったし、これでお前も気が済んだずら……早く仕度をして帰るまいかや」
「ええ、田舎《いなか》の方が安気《あんき》で好い。兄さんや姉さんの傍に居られるだけは、東京も好いけれど――」とお仙は皆なの顔を見比べながら言った。
三吉が別れを告げて、この家を出たのは町に燈火《あかり》の点《つ》き始める頃であった。薄暗く成って、復た三吉は引返して来た。つづいて森彦も入って来た。
「オヤ、三吉叔父さん、森彦叔父さんも御一緒に……」
と豊世は迎えに出た。二人の叔父は用事ありげに下座敷へ通った。
「叔父さん達は御風呂は如何《いかが》ですか」と豊世は款待顔《もてなしがお》に、「今日は、郷里《くに》へ帰る人の御馳走に立てましたところですが――」
「それじゃ、とにかく一ぱい入るとしよう」と森彦が言った。
皆な出発するという前の晩のことで、何となく家の内は混雑《ごたごた》していた。
食事を済ました後、叔父達は二階の縁側に近く居て、風呂から出る正太を待受けた。屋外《そと》は最早《もう》暗かった。お仙は煙草盆の火を見に上って来た。
森彦は胡坐《あぐら》にやりながら、
「お仙、兄さんは未だお風呂かネ」
「いえ、もう上ったずら……これから私達もよばれるところだ」
こう言って、お仙は一寸縁側へ出た。沈んだ空気は対岸の町々を遠くして見せた。河は湖水のように静かであった。お仙は欄《てすり》のところから夜の空を眺めて見て、やがて階下《した》へ引返して行った。
そのうちに正太が煙草入を手にして上って来た。チラと彼の眼は光った。
森彦は肥った身体を正太の方へ向けたが、顔はむしろ三吉の方へ向けて、
「いや、他《ほか》でも無いがネ――俺は途中で三吉と行き逢って、彼《あれ》がお前から相談を受けたという話を聞いた。そいつは考え物だぞ、三吉も一緒に来い、俺が行って正太によく話してやる。そう言って彼を引張って来たところだ」
「ああ、そのことですか」と正太は苦笑した。
三吉は河の方を見ていた。森彦は正太を諭《さと》すように、みすみす三吉に迷惑の掛るものを黙って観ている訳には行かぬ、証文に判をつけ――実も達雄も皆な同じ行き方で親類を倒している――こう腕まくりで言出した。
「そういうことなら、叔父さん、この話は断然止めましょう」
と正太はキッパリ答えた。
お種が階下《した》から煙草盆を提《さ》げて談話《はなし》の仲間入に来た頃は、森彦の声は高かった。ウンと言わなければ気の済まないのがこの叔父の癖で、お種や正太を前に置きながら、盛んに橋本|父子《おやこ》を攻撃し始めた。叔父の目から見ると、正太の相場学なぞは未だ未だ幼稚なもので、仲買人のナの字にも行っておらぬ。こんなことが森彦の口を衝《つ》いて出て来た。
その時、豊世もお仙と一緒に、浴衣《ゆかた》でやって来た。叔父の猛烈な語勢が、階下《した》にいる老婆《ばあさん》はおろか、どうかすると隣近所までも聞えそうなので、心の好いお仙は沈着《おちつ》いていられないという風であった。母の傍へ行ったり、兄の顔を眺めたりして、ハラハラしていた。
「森彦――お前の言うことは、好く解った……好く解った……正太も、叔父さんの言うことをよく聞いて置いて、橋本の家を興してくれるが可いぞや……ええ、ええ、それを忘れるようなことじゃ、申訳が無いで……」
こうお種は言いかけたが、興奮のあまり声が咽喉《のど》へ乾干《ひから》び付いたように成った。豊世も姑《しゅうとめ》の側に考深い眼付をして、女持の煙管《きせる》で煙草を燻《ふか》していた。
「今までの家風は、皆なが言うことを言わなさ過ぎたと思いますわ」と豊世は顔を揚げて、「母親さん、これから皆なでもっと言うことにしようじゃ有りませんか」
軽い、無邪気な、お仙の笑声が起った。
漸《ようや》く、一同、笑って話すことが出来るように成った。森彦も愛嬌《あいきょう》のある微笑《えみ》を見せて、
「なんでも人間は信用が無くちゃ駄目だ。俺なんかも、十年一日のごとしで、志ばかり徒《いたずら》に大きいようなものだが、信用を失わないように心掛けているんで持ってる……」
「そうサ。お前は酒も飲まず、煙草も服《の》まず――そこは一寸|真似《まね》の出来ないところだ」とお種が言った。
「これで何だぞい、俺は旅舎生活《やどやぐらし》を始めてから、唯の二度しか引手茶屋へも遊びに行ったことが無
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