で来た。子供が上って来ては、客も迷惑だろうと、お雪はあまり話の仲間入もしなかった。
 三吉は半ば串談《じょうだん》のように、「お雪は姉さんをコワがっていますよ」
「そんなことがあらすか」とお種は階梯《はしごだん》を下りかけたお雪の方を見て、「ねえ、お雪さん、貴方とは信州以来の御馴染ですものネ」
 お種の神経質らしい笑声を聞いて、お雪は泣き騒ぐ子供の方へ下りて行った。
 三吉は思い付いたように、戸棚の方へ起って行った。実が満洲へ旅立つ時、預って置いた父の遺筆を取出した。箱の塵《ちり》を払って、姉の前に置いて見せた。その中には、忠寛の歌集、万葉仮名で書いた短冊《たんざく》、いろいろあるが、殊にお種の目を引いたのは、父の絶筆である。漢文で、「慷慨《こうがい》憂憤の士を以《も》って狂人と為す、悲しからずや」としてある。墨の痕《あと》も淋漓《りんり》として、死際《しにぎわ》に震えた手で書いたとは見えない。
 父忠寛が最後の光景《ありさま》は、いつも三吉が聞いて見たく思うことであった。お鶴が通夜の晩に、皆な集って、お倉から聞いた時の話ほど、お種は委《くわ》しく記憶していなかった。そのかわり、お種はお倉の記憶に無いことを記憶していた。
「大きく『熊』という字を書いて、父親《おとっ》さんが座敷牢から見せたことが有ったぞや」とお種は弟に微笑《ほほえ》んで見せて、「皆な、寄《よ》って集《たか》って、俺を熊にするなんて、そう仰《おっしゃ》ってサ……」
「熊はよかった」と三吉が言った。
「それは、お前さん、気分が種々に成ったものサ。可笑《おか》しく成る時には、アハハ、アハハ、独りでもう堪《こた》えられないほど笑って、そんなに可笑しがって被入《いら》っしゃるかと思うと、今度は又、急に沈んで来る……私は今でもよく父親さんの声を覚えているが、きりぎりす啼《な》くや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかも寝む、そう吟じて置いて、ワアッと大きな声で御泣きなさる……」
 お種は激しく身体を震《ふるわ》せた。父が吟じたという古歌――それはやがて彼女の遣瀬《やるせ》ない心であるかのように、殊に力を入れて吟じて聞かせた。三吉は姉の肉声を通して、暗い座敷|牢《ろう》の格子に取縋《とりすが》った父の狂姿を想像し得るように思った。彼はお種の顔を熟《じっ》と眺めて、黙って了った。
 この姉が上京する前、正太から話のあった達雄との会見――今にそれを姉が言出すか言出すかと、三吉は心に思っていた。お種は、弟の方で待受けたようなことを何事《なんに》も言出さずじまいに、郷里の方の変遷《うつりかわり》などをいろいろと語り聞かせた後で、一緒に階下《した》へ降りた。
 お雪は眼の覚《さ》めた銀造を抱き擁《かか》えて、
「へえ、伯母ちゃん、銀ちゃんを見て下さい」
「オオ、温順《おとな》だそうな。白い前掛《まいか》を掛けて――好い児だ、好い児だ」とお種は孫でもアヤすように言った。
「この通りの子持で御座いますから、いずれ私は夜分にでも伺います」
「お雪さん、御待ち申していますよ。お仙にも逢《あ》ってやって下さい」


 それから一週間ばかり、お種は逗留《とうりゅう》した。そこそこに帰郷の仕度を始めたと聞いて、親戚はかわるがわる正太の家を訪ねた。三吉も別れかたがた出掛けて行った時は、お俊、お延なぞの娘達が集って来ていた。森彦の二番目の娘で、遊学のために上京したお絹も来ていた。
「三吉、御免なさいよ。今髪を結って了いますから」
 とお種は階梯《はしごだん》の下に近く鏡台を置いて、その前に坐りながら挨拶《あいさつ》した。お種の後には、白い前垂を掛けた女髪結が立って、しきりと身体を動かしていた。
「叔父さん、私も母親さんの御供をして、一寸|郷里《くに》まで行って参ります。実は行く前に、御相談したいことも有りますし、私の方から今伺おうと思っていたところなんです」
 正太は叔父の顔を見て、丁度好いところへ来てくれたという風に言った。
 三吉、正太の二人は連立って、河の見える二階へ上った。窓の扉《と》だけ赤く塗った河蒸汽が、音波を刻んで眺望の中に入って来た。やがて川上の方へ通過ぎた。
 三吉は薄く濁った水を眺めて、
「姉さんも、何事《なんに》も言出さずに帰って行くものと見えるネ……時に、正太さん、相談したいというのは何ですか」
 と叔父に言われて、しばらく正太は切出しかねていた。金の話であった。郷里《くに》に居る正太の知人で、叔父の請判《うけはん》があらば、貸出しそうなものが有る。商法の資本《もとで》として、二千円ばかり借りて来たい。迷惑は掛けないから、判だけ捺《お》してくれ。
「実は――この話は、母親さんからこうこういう人があると、聞出したのが元なんです」と正太は折入って三吉に頼んだ。
 お種は髪が出来て上って来
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