う目に遭遇《でっくわ》したんだからネ……実際あの晩はエラかったよ……」
「私なぞは、叔父さん、すくなくも十年|寿命《じゅみょう》が縮みました」
「ホラ、君と二人で最後に公園の内を探って、広小路へ出て来ると、あの繁華な場処に人一人通らずサ……あの時、君は下谷の方面を探り給え、僕は浅草橋通りをもう一遍捜してみようッて言って、二人で帽子を脱《と》って別れましたろう――あの時は、君、何とも言えない感じがしたネ」
「そうそう、一つ踏外すと皆な一緒にどうなるかと思うような……こりゃあウカウカしちゃあいられない、そう思って、私は上野の方へ独《ひと》りで歩いて行きました」
 水を打ったような深夜の道路、互に遠ざかりながら聞いた幽《かす》かな足音――未だそれは二人の眼にあり耳にあった。
 女達が集って来た。親類の話が始まった。遠く満洲の方に居る実のことが出るにつけても、お種は夫の達雄を思出すらしかった。お俊《しゅん》の結婚も何時あるかなどと噂《うわさ》した後で、三吉は辞して行った。


 お仙を残して置いて、お種は独《ひと》りで弟の家族に逢いに行った。
 三吉の家では、お雪が子供に着物を着更えさせるやら、茶道具を取り出すやらして、姉を待受けていた。気の置けない男の客と違い、殊《こと》に親類中一番|年長《としうえ》のお種のことで、何となくお雪は改まった面持で迎えた。弟の家内の顔を見ると、お種は先ず亡くなったお房やお菊やお繁のことを言出した。
 三吉は姉の側に坐って、「姉さん、御馴染《おなじみ》の子供は一人も居なくなりました」
「そうサ――」とお種も考深く。
「種ちゃん、橋本の伯母さんに御辞儀をしないか」とお雪が呼んだ。
「種ちゃんはもう御馴染に成ったねえ。御預りのワンワンも伯母さんが持って来ましたよ」
「姉さん、これが新ちゃんです」と三吉は、漸《ようや》く匍《は》って歩く位な、次男の新吉を抱寄せて見せる。
「オオ、新ちゃんですか」とお種は顔を寄せて、「ほんに、この児は壮健《じょうぶ》そうな顔をしてる。眼のクリクリしたところなぞは、三吉の幼少《ちいさ》い時に彷彿《そっくり》だぞや……どれ、皆な好い児だで、伯母さんが御土産《おみや》を出さずか」
 子供は、伯母から貰った玩具《おもちゃ》の犬を抱いて、家のものに見せて歩いた。
「お雪、銀ちゃんを抱いて来て御覧」と三吉が言った。
「これ、温順《おとな》しく寝てるものを、そうッとして置くが可い」とお種は壁に寄せて寝かしてある一番|幼少《ちいさ》い銀造の顔を覗《のぞ》きに行った。
「どうです、姉さん、これが六人めですよ――随分出来も出来たものでしょう」
「お前さんのところでは、お雪さんも御達者だし、どうして未だ未だこれから出来ますよ」
 こんなことを傍で言われて、お雪はキマリが悪そうに茶戸棚《ちゃとだな》の方へ行った。
「真実《ほんと》に、子供があると無いじゃ、家の内が大違いだ」と言って、お種は正太の家のことを思い比べるような眼付をした。
 その日、お種は心易く振舞おう振舞おうとしていたが、どうかすると酷《ひど》く興奮した調子が出て来た。時にはそれが病的に聞えた。すこしも静止《じっと》していられないような姉の様子が、何となくお雪には気づかいであった。お種は狭い町中の住居《すまい》をめずらしく思うという風で、取散した勝手元まで見て廻ろうとするので、お雪はもう冷々《ひやひや》していた。
 姉を案内して、三吉は二階の部屋へ上った。日中《ひるなか》の三味線の音が、乾燥《はしゃ》いだ町の空気を通して、静かに響いて来た。
「姉さん、東京も変りましたろう」
 こういう弟の話を、お種は直に吾児《わがこ》の方へ持って行った。
「今度、出て来てみたら、正太の家には妙なものが掛けてある。何様とかの御護符《おふだ》だげナ。そして、一寸したことにも御幣を担《かつ》ぐ。相場師という者は皆なこういうものだなんて……若い時はあんな奴じゃなかったが……」
「しかし、正太さんはナカナカ面白いところが有りますよ。ウマくやってくれると宜《よ》う御座んすがネ」
「まあ、彼《あれ》は、阿爺《おとっ》さんから見ると、大胆なところが有るで――」
 お種は言い淀《よど》んで、豊世から聞いた正太と他の女との関係を心配そうに話した。
「アア向島の芸者のことですか」
「それサ」
「へえ、豊世さんは心配してるんですかネ。そんな話は、疾《とっ》くにどうか成ったかと思っていた」
「ところがそうで無いらしいから困るテ……豊世もあれで、森彦叔父さんなら何事《なん》でも話せるが、どうも三吉叔父さんは気遣《きづか》いだなんて言ってる」
 こうお種が言って笑ったので、三吉の方でも苦笑《にがわらい》した。
 お雪は姉の馳走《ちそう》に取寄せた松の鮨《すし》なぞを階下《した》から運ん
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