豊世さんが心配してるんですか。そんな危げのある女でも無さそうですがナア。私の見たところでは、お目出度いような人でしたよ」
「復た阿爺《おやじ》の轍《てつ》を履《ふ》みはしないか、それを豊世は恐れてる」
「しかし、兜町の連中なぞは酒席が交際場裏だと言う位です。塩瀬の大将だっても妾《めかけ》が幾人《いくたり》もあると言う話です。部下のものが飲みに行く位のことは何とも思ってやしないんでしょう。大将がそんなことを言いそうも無い……豊世さんの方で心配し過ぎるんじゃ有りませんか」
「俺は、まあ、何方《どっち》だか知らないが――」
「そんなことは放擲《うっちゃらか》して置いたら可いでしょう。そうホジクらないで……私に言わせると、何故《なぜ》そんなに遊ぶと責めるよりか、何故もっと儲けないと責めた方が可い」
 森彦は長火鉢の上で手を揉んだ。
「どうも彼《あれ》は質《たち》がワルいテ。すこしばかり儲けた銭で、女に貢《みつ》ぐ位が彼の身上《しんじょう》サ。こう見るのに、時々彼が口を開いて、極く安ッぽい笑い方をする……あんな笑い方をする人間は直ぐ他《ひと》に腹の底を見透されて了う……そこへ行くと、橋本の姉さんなり、豊世なりだ。余程彼よりは上手《うわて》だ。吾儕《われわれ》の親類の中で、彼の細君が一番エライと俺は思ってる。細君に心配されるような人間は高が知れてるサ」
「ですけれど――私は、貴方が言うほど正太さんを安くも見ていないし、貴方が買ってる程には、橋本の姉さんや豊世さんを見てもいません。丁度姉さんや豊世さんは貴方が思うような人達です。しかし、あの人達は自分で自分を買過ぎてやしませんかネ」
「そうサ。自分で高く買被《かいかぶ》ってるようなところは有るナ」
 兄は弟の顔をよく見た。
「女の方の病気さえなければ、橋本|父子《おやこ》に言うことは無い――それがあの人達の根本《おおね》の思想《かんがえ》です。だから、ああして女の関係ばかり苦にしてる。まだ他に心配して可いことが有りゃしませんか。達雄さんが女に弱くて、それで家を捨てるように成った――そう一途《いちず》にあの人達は思い込んで了うから困る」
 兄は、弟が来て、一体誰に意見を始めたのか、という眼付をした。
「しかし」と三吉はすこし萎《しお》れて、「正太さんも、仕事をするという質《たち》の人では無いかも知れませんナ」
「彼が相場で儲けたら、俺は御目に懸りたいよ」
「ホラ、去年の夏、近松の研究が有りましたあネ。丁度盆の芝居でしたサ。あの時は、正太さんも行き、俊も延も行きました。博多小女郎浪枕《はかたこじょろうなみまくら》。私はあの芝居を見物して帰って来て、復た浄瑠璃本《じょうるりぼん》を開けて見ました。宗七という男が出て来ます。優美|慇懃《いんぎん》なあの時代の浪華《なにわ》趣味を解するような人なんです。それでいて、猛烈な感情家でサ。長崎までも行って商売をしようという冒険な気風を帯びた男でサ。物に溺《おぼ》れるなんてことも、極端まで行くんでしょう……何処かこう正太さんは宗七に似たような人です。正太さんを見る度に、私はよくそう思い思いします――」
「彼の阿爺《おやじ》が宗七だ――彼は宗七第二世だ」
 兄弟は笑出した。
「それはそうと、俺の方でも呼び寄せて、彼によく言って置く。細君を心配させるようなことじゃ不可《いかん》からネ。お前からも何とか言って遣《や》ってくれ」と森彦が言った。
「去年の夏以来、私は意見をする権利が無いとつくづく思って来ました」と三吉は意味の通じないようなことを言って、笑って、「とにかく、謹み給え位のことは言って置きましょう」
 遠く満洲の方へ行った実の噂、お俊の縁談などをして、弟は帰った。


 正太は兜町の方に居た。塩瀬の店では、皆な一日の仕事に倦《う》んだ頃であった。テエブルの周囲《まわり》に腰掛けるやら、金庫の前に集るやらして、芝居見物の話、引幕の相談なぞに疲労《つかれ》を忘れていた。煙草のけぶりは白い渦を巻いて、奥の方まで入って行った。
 土蔵の前には明るい部屋が有った。正太は前に机を控えて、幹部の人達と茶を喫《の》んでいた。小僧が郵便を持って来た。正太|宛《あて》だ。三吉から出した手紙だ。家の方へ送らずに、店に宛てて寄《よこ》すとは。不思議に思いながら、開けて見ると、内には手紙も無くて、水天宮の護符《まもりふだ》が一枚入れてあった。
 正太はその意味を読んだ。思わず拳《こぶし》を堅めてペン軸の飛上るほど机をクラわせた。
「橋本君、そりゃ何だネ」と幹部の一人が聞いた。
「こういう訳サ」正太は下口唇を噛《か》みながら笑った。「昨日一人の叔父が電話で出て来いというから、僕が店から帰りがけに寄ったサ。すると、例の一件ネ、あの話が出て、可恐《おそろ》しい御目玉を頂戴した。この叔父の方
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