からも、いずれ何か小言が出る。それを僕は予期していた。果してこんなものを送って寄した」
「何の洒落《しゃれ》だい」
「こりゃ、君、僕に……溺死《できし》するなという謎《なぞ》だネ」
「意見の仕方にもいろいろ有るナア」
 幹部の人達は皆な笑った。
 その日、正太は種々な感慨に耽《ふけ》った。不取敢《とりあえず》叔父へ宛てて、自分もまた男である、素志を貫かずには置かない、という意味を葉書に認めた。仕事をそこそこにして、横手の格子口から塩瀬の店を出た。細い路地の角のところに、牛乳を温めて売る屋台があった。正太はそれを一合ばかり飲んで、電車で三吉の家の方へ向った。
 叔父の顔が見たくて、寄ると、丁度長火鉢の周囲《まわり》に皆な集っていた。正太は叔父の家で、自分の妻とも落合った。
「正太さん、妙なものが行きましたろう」
 と三吉は豊世やお雪の居るところで言って、笑って、他の話に移ろうとした。豊世は叔父と相対《さしむかい》の席を夫に譲った。自分の敷いていた座蒲団を裏返しにして、夫に勧めた。
「叔父さん、確かに拝見しました」と正太が言った。「私から御返事を出しましたが、それは未だ届きますまい」
 豊世は夫の方を見たり、叔父や叔母の方を見たりして、「私は先刻《さっき》から来て坐り込んでいます……ねえ叔母さん……何か私が言うと、宅は直ぐ『三吉叔父さんの許《ところ》へ行って聞いて御覧』なんて……」
 こんな話を、豊世も諄《くど》くはしなかった。彼女は夫から巻煙草を貰って、一緒に睦《むつ》まじそうに吸った。
「バア」
 三吉は傍へ来た種夫の方へ向いて、可笑《おかし》な顔をして見せた。
「叔母さん、私も子供でも有ったら……よくそう思いますわ」と豊世が言った。
「豊世さんの許でも、御一人位御出来に成っても……」とお雪は茶を入れて款待《もてな》しながら。
「御座いますまいよ」豊世は萎《しお》れた。
「医者に診《み》て貰ったら奈何《いかが》です」と言って、三吉は種夫を膝の上に乗せた。
「宅では、私が悪いから、それで子供が無いなんて申しますけれど……何方《どっち》が悪いか知れやしません」
「俺は子供が無い方が好い」と正太は何か思出したように。
「あんな負惜みを言って」
 と豊世が笑ったので、お雪も一緒に成って笑った。
 豊世は一歩《ひとあし》先《さき》へ帰った。正太は叔父に随《つ》いて二階の楼梯《はしごだん》を上った。正太は三吉から受取った手紙の礼を言った後で、
「豊世なぞは解らないから困ります。そりゃ芸者にもいろいろあります。ミズの階級も有ります。しかし、叔父さん、土地で指でも折られる位のものは、そう素人《しろうと》が思うようなものじゃ有りません。あの社会はあの社会で、一種の心意気というものが有ります。それが無ければ、誰が……教育あり品性ある妻を置いて……」
「いえ、僕はネ、君が下宿時代のことを忘れさえしなけりゃ――」
「難有《ありがと》う御座います。あの御守は紙入の中に入れて、こうしてちゃんと持ってます。今日は大に考えました」
 こう言って、正太は激昂《げっこう》した眼付をした。彼は、真面目《まじめ》でいるのか、不真面目でいるのか、自分ながら解らないように思った。「とにかく肉的なと言ったら、私は素人の女の方がどの位肉的だか知れないと思います……」こんなことまで叔父に話して、微笑んで見せた。
「正太さん、何故君はそんなに皆なから心配されるのかね」
「どうも……叔父さんにそう聞かれても困ります」
「世の中には、君、随分仕たいことを仕ていながら、そう心配されない人もありますぜ。君のようにヤイヤイ言われなくても可《よ》さそうなものだ……何となく君は危いような感じを起させる人なんだネ」
「それです。塩瀬の店のものもそう言います――何処か不安なところが有ると見える――こりゃ大に省《かえり》みなけりゃ不可《いかん》ぞ」
 その時、お雪が階下《した》から上って来て声を掛けた。
「父さん、※[#「※」は「ひとがしら+ナ」、108−17]が見えました」
 親戚の客があると聞いて、正太は叔父と一緒に二階を下りた。
「正太さん、この方がお福さんの旦那さんです」
 商用の為に一寸上京した勉を、三吉は甥に紹介した。勉は名倉の母からの届け物と言って、鯣《するめ》、数の子、鰹節《かつおぶし》などの包をお雪の方へ出した。


 大掃除の日は、塵埃《ごみ》を山のように積んだ荷馬車が三吉の家の前を通り過ぎた。畳を叩《たた》く音がそこここにした。長い袖の着物を着て往来を歩くような人達まで、手拭《てぬぐい》を冠って、煤《すす》と埃《ほこり》の中に寒い一日を送った。巡査は家々の入口に検査済の札を貼付《はりつ》けて行った。
 早く暮れた。お雪は汚《よご》れた上掩《うわッぱり》を脱いで、子供や下婢《お
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