た。
「オイ、お雪、今の洋服を出してくれ。正太さんが飯を食いに行くと言うから、俺《おれ》も一緒に話しに行って来る」
「男の方というものは、気楽なものですねえ」
お雪は笑った。三吉は一旦《いったん》脱いだ白シャツに復た手を通して、服も着けた。正太は紺色の長い絹を襟巻《えりまき》がわりにして、雪踏《せった》の音なぞをさせながら、叔父と一緒に門を出た。
「何となく君は兜町《かぶとちょう》の方の人らしく成ったネ。時に、正太さん、君は何処《どこ》へ連れて行く積りかい」
「叔父さん、今夜は私に任せて下さい。種々《いろいろ》御世話にも成りましたから、今夜は私に奢《おご》らせて下さい」
こう二人は話しながら歩いた。
町々の灯は歓楽の世界へと正太の心を誘うように見えた。昂《あが》ったとか、降《さが》ったとか言って、売ったり買ったりする取引場の喧囂《けんごう》――浮沈《うきしずみ》する人々の変遷――狂人《きちがい》のような眼――激しく罵《ののし》る声――そういう混雑の中で、正太は毎日のように刺激を受けた。彼は家にジッとしていられなかった。夜の火をめがけて羽虫が飛ぶように、自然と彼の足は他《ひと》の遊びに行く方へ向いていた。電車で、ある停留場まで乗って、正太は更に車を二台命じた。車は大きな橋を渡って、また小さな橋を渡った。
風は無いが、冷える晩であった。三吉は正太に案内されて、広い静かな座敷へ来ていた。水に臨んだ方は硝子戸《ガラスど》と雨戸が二重に閉めてあって、それが内の障子の嵌硝子《はめガラス》から寒そうに透けて見えた。
女中が火を運んで来た。洋服で震えて来た三吉は、大きな食卓の側に火鉢《ひばち》を擁《かか》えて、先《ま》ず凍えた身体を温めた。
正太は料理を通して置いて、
「それからねえ、姉さん、小金さんに一つ掛けて下さい」
「小金さんは今、彼方《あちら》の御座敷です」
「『先程は電話で失礼』――そう仰《おっしゃ》って下されば解ります」
それを聞いて、女中は出て行った。
「叔父さん、こうして名刺を一枚出しさえすれば、何処《どこ》へ行っても通ります――塩瀬の店は今兜町でも売《うれ》ッ子なんですからネ」と正太は、紙入から自分の名刺を取出して、食卓の上に置いて見せた。
正太の話は兜町の生活に移って行った。漸《ようや》く塩瀬の大将に知られて重なる店員の一人と成ったこと、その為には随分働きもしたもので、他《ひと》の嫌《いや》がる帳簿は二晩も寝ずに整理したことを叔父に話した。彼は又、相場師生活の一例として、仕立てたばかりの春衣《はるぎ》が仕附糸《しつけいと》のまま、年の暮に七つ屋の蔵へ行くことなどを話した。
「そう言えば、今は実に可恐《おそろ》しい時代ですネ」と正太は思出したように、「此頃《こないだ》、私がお俊ちゃんの家へ寄って、『鶴ちゃん、お前さんは大きく成ったらどんなところへお嫁に行くネ』と聞きましたら――あんな子供がですよ――軍人さんはお金が無いし、お医者さんはお金が有っても忙しいし、美《い》い着物が着られてお金があるから大きな呉服屋さんへお嫁に行きたいですト――それを聞いた時は、私はゾーとしましたネ」
こんな話をしているうちに、料理が食卓の上に並んだ。小金が来た。小金は三吉に挨拶《あいさつ》して、馴々《なれなれ》しく正太の傍へ寄った。親孝行なとでも言いそうな、温順《おとな》しい盛りの年頃の妓《おんな》だ。
「橋本さん、老松《おいまつ》姐《ねえ》さんもここへ呼びましょう――今、御座敷へ来てますから」
と言って、小金は重い贅沢《ぜいたく》な着物の音をさせながら出て行った。
土地に居着《いつき》のものは、昔の深川芸者の面影《おもかげ》がある。それを正太は叔父に見て貰いたかった。こういうところへ来て、彼は江戸の香を嗅《か》ぎ、残った音曲を耳にし、通人の遺風を楽しもうとしていた。
小金、老松、それから今一人の年増が一緒に興を添えに来た。老松は未だ何処かに色香の名残《なごり》をとどめたような老妓で、白い、細い、指輪を嵌《は》めた手で、酒を勧《すす》めた。
「老松さん、今夜はこういう客を連れて来ました」と正太が言った。「御馳走《ごちそう》に何か面白い歌を聞かせて進《あ》げて下さい」
老松は三吉の方を見て、神経質な額と眼とで一寸《ちょっと》挨拶した。
「どうです、この二人は――何方《どっち》がこれで年長《としうえ》と見えます」と復た正太が言った。
「老松姐さん、私は是方《こちら》の方がお若いと思うわ」と小金が三吉を指して見せた。
「私もそう思う」と老松は三吉と正太とを見比べた。
「ホラ――ネ。皆なそう言う」と正太は笑って、「これは私の叔父さんですよ」
「是方《こちら》が橋本さんの叔父さん?」老松は手を打って笑った。
「叔父さんは好かった
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