彼の虚《むな》しい手の中には、何物も抱締めてみるようなものが無かった……朝に晩に傍へ来る娘達が、もし自分の真実《ほんとう》の子供ででもあったら……この考えはすこし彼を呆《あき》れさせた。死んだお房のかわりに抱くとしては、お俊なぞは大き過ぎたからである。
近所の人達は屋外《そと》へ出た。互に家の周囲《まわり》へ水を撒《ま》いた。叔父が跣足《はだし》で庭へ下りた頃は、お俊も気分が好く成ったと言って、台所の方へ行って働いた。夕飯過に、三吉は町から大きな水瓜《すいか》を買って戻って来た。思いの外《ほか》お俊も元気なので、叔父は安心して、勉めてくれる娘達を慰めようとした。燈火《あかり》を遠くした縁側のところには、お俊やお延が団扇《うちわ》を持って来て、叔父と一緒に水瓜を食いながら、涼んだ。
女教師の家へも水瓜を分けて持って行ったお延は、やがて庭伝いに帰って来た。
「裏の叔父さんがなし、面白いことを言ったデ――『ああ、ああ、峯公(女教師の子息)も独りで富士登山が出来るように成ったか、して見ると私が年の寄るのも……』どうだとか、こうだとか――笑って了《しま》ったに」
お延の無邪気な調子を聞くと、お俊は笑った。
何時《いつ》の間にか、月の光が、庭先まで射し込んで来ていた。お延は早く休みたいと言って、独りで蚊帳の内へ入った。夜の景色が好さそうなので、三吉は前の晩と同じように歩きに出た。お俊も叔父に随《つ》いて行った。
朝の膳《ぜん》の用意が出来た。お延は台所から熱いうつしたての飯櫃《めしびつ》を運んだ。お俊は自分の手で塩漬にした茄子《なす》を切って、それを各自《めいめい》の小皿につけて持って来た。
三吉は直ぐ箸《はし》を執《と》らなかった。例《いつ》になく、彼は自分で自分を責めるようなことを言出した。「実に、自分は馬鹿らしい性質だ」とか、何だとか、種々なことを言った。
「これから叔父さんも、もっとどうかいう人間に成ります」
こう三吉はすこし改まった調子で言って、二人の姪の前に頭を下げた。
お俊やお延は笑った。そして、叔父の方へ向いて、意味もなく御辞儀をした。
漸く三吉は箸を執り上げた。ウマそうな味噌《みそ》汁の香を嗅《か》いだ。その朝は、よく可笑《おか》しな顔付をして姪達を笑わせる平素《ふだん》の叔父とは別の人のように成った。死んだ子供等のことを思えば、こうして
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