った。「この春あたりまでは文通もしましたが、それからはサッパリ手紙も来なく成りました……」
「駒形にあった額が三枚僕の家へ来てる。いずれ僕が東京へ帰ったら、あの中をどれか一枚、君の記念として送りましょう」
「何卒《どうぞ》、宜しく……」
正太は意外な音信《おとずれ》を聞いたという顔付で話した。
何気なく三吉は廊下の方へ出て見た。そこで豊世と幸作とに逢った。三吉は姉の様子が好さそうなのを悦《よろこ》んで、それを二人に話した。「母親さんも気を張って被入《いら》っしゃるからでしょうよ。私の方が反《かえ》って励まされる位です」と豊世は言った。「どうして、心《しん》はあれで弱っているんです」と彼女は附添えた。
幸作に伴われて、三吉は二階の昇降口《のぼりぐち》の人の居ないところへも行った。
「満洲の父親《おとっ》さんの方へは知らせたものでしょうか……」
「さあねえ……もし万一のことでも有ったら、その時は知らせるサ」
「私も、まあ、それに賛成だ……」
二人は欄《てすり》に倚《よ》りながらこんな立話をした。その時幸作は、豊世の一身に就いて、行末の方針に苦むということを話した。正太の看護はしても、再び橋本の家へ帰る心は、豊世には無いらしいとのことで有った。
三吉も、そう長く名古屋に逗留《とうりゅう》することは出来なかった。午後まで、皆なと一緒に正太の側に居た。甥の病勢もまだ旦夕《たんせき》に迫ったという程では無いらしいので、看護を人々に頼んで置いて、東京の方へ帰ることにした。
別れる時が来た。つと三吉は正太の枕許へ行った。
「正太さん。僕はこれで失敬します」
と言いながら、熱い汗ばんだ手を差出して、握手を求めた。
長いこと叔父甥は手を握り合っていた。やがて三吉が別れを告げて行こうとすると、正太は周章《あわ》てて叔父の解《ほど》いた手に取縋《とりすが》るようにして、
「僕も勇気を奮《ふる》い起して、是非もう一度叔父さんに御目に掛ります……」
と言いながら、堅く堅く叔父の手を握り〆《しめ》た。一度に込上げて来るような涙が正太の暗い顔を流れた。
「オオ、そうだとも……」
側に居たお種は吾児《わがこ》を励ますように言って、思わず両手で顔を掩《おお》うた。次の部屋には、幸作が坐って、頭を垂れていた。
長い廊下の突当りには消毒する場所があった。三吉はそこで自分の手をよく洗っ
前へ
次へ
全162ページ中160ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング