とまた吾家《うち》の阿爺《おやじ》が喋舌《しゃべ》っていましょうよ。遠方から来た御客様をつかまえて、ああだとか、こうだとかッて――しかし、母親さんも御大抵じゃ有りませんね、御嫁さんの仕度から何から一人で御世話を成さるんじゃ……」
こう稲垣の細君が言うと、娘は母に倚凭《よりかか》りながら、結婚ということを想像してみるような眼付をしていた。
部屋々々の洋燈は静かに燃《とぼ》った。お倉は一つの洋燈の向うに見える丸蓋《まるがさ》の置洋燈の灯を眺めて、
「私なぞも小泉へ嫁《かたづ》いて来る時は――真実《ほんと》に、まあ、昔話のように成って了《しま》った――最早親の家にも別れるのかと思って、ちょっと敷居を跨《また》ぐと……貴方《あなた》、涙がボロボロと零《こぼ》れて……」
稲垣の細君も思出したように、「誰でもそうですよ、あんな哀《かな》しいことは有りませんよ」
「もう一度私もあんな涙を零してみたい――」とお杉も笑って、乾いた口唇を霑《うるお》すようにした。「アアアア、こんなお婆さんに成っちゃ終《おしまい》だ……年を拾うばかしで……」
「厭《いや》だよ、この娘《こ》は――ブルブル震えてサ」と稲垣の細君は娘の顔を眺めて言った。
「何だか小母《おば》さんの身体まで震えて来た」
こうお杉は細君の手から娘を抱取るようにして笑った。
静かな夜であった。上野の鐘は寂《しん》とした空気に響いて聞えて来た。留守居の女達は、楽しい雑談に耽《ふけ》りながら、皆なの帰りを待っていた。
柱時計が十時を打つ頃に成って、一同車で帰って来た。急に家の内は人で混雑《ごたごた》した。
「どうも名倉さんの母親《おっか》さんには感心した。シッカリしたものだ」
こう実と稲垣とは互に同じようなことを言った。復た酒が始まった。その時、三吉の妻は家の人々や稲垣の細君などに引合わされた。
「お俊ちゃん、叔母さんが一人増えたことね」と稲垣の娘が言った。
「ええ、そうよ、お雪叔母さんよ」とお俊も笑った。
「稲垣さん、種々《いろいろ》御尽力で難有《ありがと》う御座いました」と実は更に盃を差した。
「酒はもう沢山」と稲垣は手を振って、「今夜のように私も頂いたことは有りません」
「こんな嬉しいことは無い」と実は繰返し言った。「私一人でも今夜は飲み明かさなくちゃ成らん」
「三吉――宗蔵はお前の方へ頼む。今度田舎へ行く序《ついで》に、是非一緒に連れてッてくれ」
こう実は、婚礼のあった翌日、三吉に向って茶話のように言出した。
巣を造るか造らないに最早《もう》こういう難題が持上ろうとは、三吉も思いがけなかった。お杉やお倉ですら持余《もてあま》している宗蔵だ。その病人の世話が、嫁《かたづ》いて来たばかりのお雪に届くであろうか、覚束《おぼつか》なかった。実の頼みは、茶話のようで、その実無理にも強《し》いるような力を持ていた。とにかく、三吉は田舎へ発つまでに返事をすることにした。
一方に学校を控えていたので、そう三吉もユックリする余裕は無かった。不取敢《とりあえず》、森彦、宗蔵の二人の兄に妻を引合せて行きたいと思った。
名倉の母達が泊っている宿からは、柳行李《やなぎごうり》が幾個《いくつ》も届いた。「まあ、大変な荷物だ」と稲垣も来て言って、仮にそこへ積重ねてくれた。
稲垣の家は近かった。三吉はお雪を連れて、その方に移されていた宗蔵を訪ねた。この病人の兄は例の縮《ちぢ》かまったような手を揉《も》んで、「遠方から御苦労様」という眼付をして、弟の妻に挨拶《あいさつ》した。
「宗さんには逢《あ》った。これから森彦さんの許《ところ》だ」と三吉は稲垣の家を出てから言った。
「その兄さんは何を為《な》さる方ですか」こうお雪が聞いた。
長いこと森彦は朝鮮の方に行っていた。東亜の形勢ということに眼を着けて、その間種々な方面の人に知己の出来たことや、時には貿易事業に手を出したことなどは、大体の輪廓だけしか身内の者の間に知られていなかった。それから帰って来て、以前尽力した故郷の山林事件の為に、有志者を代表して奔走を続けている。この兄は、一平民として、地方の為に働きつつあるとは言える。しかし、何――屋とか、何――者とか、一口に話せないような人であった。
「まあ、俺《おれ》と一緒に行って、逢ってみるが可い」
三吉はこんな風に言ってみた。
森彦の旅舎《やどや》へは、お俊も三吉夫婦に伴われて行った。二階の座敷には熊の毛皮などが敷いてあって、窓に寄せて、机、碁盤《ごばん》の類が置いてある。片隅《かたすみ》に支那|鞄《かばん》が出してある。室内の心地《こころもち》よく整頓《せいとん》された光景《さま》を見ても、長く旅舎住居をした人ということが分る。
「よく来てくれた。私は兄貴の許《ところ》へ手紙を遣《や》って置いたが、名倉さんにもお目に懸らなくて失礼しました。今日は一つ、皆なに西洋料理でも御馳走《ごちそう》しよう」こう森彦は言って、茶盆を取出して置いて手を鳴らした。
「何か御用で御座いますか」と宿の内儀《かみさん》が入って来た。
「ヤ、内儀《おかみ》さん、これが弟の嫁です」と森彦はお雪を紹介した。「時に、何か甘い菓子を取りに遣《や》って下さい」
「では、僕も巻煙草を頼もう」と三吉が言った。
「三吉はえらく煙草を燻《ふか》すように成ったナ」と森彦はすこし顔をシカめた。この兄は煙草も酒もやらなかった。
昼食《ひる》には、四人で連立って旅舎を出た。森彦は弟達をある洋食屋の静かな二階へ案内した。そこで故郷の方に留守居する自分の家族の噂《うわさ》をした。
森彦にも遇《あ》わせた。三吉は更に、妻の友達にも、と思って、二人の婦人《おんな》の知人《しりびと》を紹介しようとした。お雪も逢ってみたいと言う。で、順にそういう人達の家を訪問することにした。
暮れてから、三吉は曾根《そね》という家の方へお雪を連れて行った。
曾根は、お雪が学校時代の友達の叔母にあたる人で、姉の家族と一緒に暮していた。細長い陶器《せともの》の火鉢を各自《めいめい》に出すのがこの家の習慣に成っていた。その晩はある音楽者の客もあって、火鉢が何個《いくつ》も出た。ここはすべてが取片付けてあって、あまり部屋を飾る物も置いて無い。子供のある家で、時々泣出す声も聞える。六つばかりに成る、色の白い、髪を垂下げた娘が、曾根の傍へ来て、三吉夫婦に御辞儀をした。
「まあ、可愛らしいお娘《こ》さんですね」
とお雪が言うと、娘は神経質らしい容子《しな》をして、やがてキマリが悪そうに出て行った。
お雪から見ると、曾根は年長《としうえ》だった。お雪の眼には、憂鬱《ゆううつ》な、気心の知れない、隠そう隠そうとして深く自分を包んでいるような、まだまだ若く見える女が映った。曾根は最早いろいろな境涯を通り越して来たような人であった。言葉も少なかった。
客もあったので、夫婦は長くも居なかった。小泉の兄の家へ帰ってから、三吉はこんな風に妻に尋ねてみた。
「どうだね、あの人達は」
「そうですね……」
とお雪は返事に窮《こま》った。交際《つきあ》って見た上でなければ、彼女には何とも言ってみようが無かった。
翌日《あくるひ》の午後、三吉達は東京を発つことにした。買物やら、荷造やら、いそがしい思をした。その時、三吉は実の居るところへ行って、一と先《ま》ず宗蔵の世話を断《ことわ》った。
「あれはすこし無理だった――俺の方が無理だった」
と実は笑いながら点頭《うなず》いた。
名倉の母や兄からは、停車場《ステーション》までは見送らないと言って、お雪の許へ箪笥を買う金を二十円ほど届けて来た。別離《わかれ》の言葉が取換《とりかわ》された。三時頃には、夫婦は上野の停車場へ荷物と一緒に着いた。多くの旅客も集って来ていた。
暗くなって三吉夫婦は自分等の新しい家に着いた。汽車の都合で、途中に一晩泊って、猶《なお》さ程旅を急がなかった為に、復た午後から乗って来た。その日のうちに着きさえすれば可い、こういう積りであったので。お雪は汽車を降りるから自分の家の庭に入るまで、暗い、知らない道を夫に連れられて来た。
庭を上ると、直ぐそこは三尺四方ばかりの炉を切った部屋で、炉辺《ろばた》には年若な書生が待っていた。この書生は三吉が教えに行く学校の生徒であった。
「明日は月曜ですから、最早それでも御帰りに成る頃かと思って、御待ち申していました」と書生はお雪に挨拶した後で言った。
「大分ユックリやって来ました」と三吉も炉辺に寛《くつろ》いだ。
お雪は眺《なが》め廻しながら、
「へえ、こういうところですか」
と言って、書生に菓子などを出して勧めた。先ず眼につくものは、炉に近い戸棚、暗い煤《すす》けた壁、大きな、粗末な食卓……
「ここは士族屋敷の跡なんだそうだ」と三吉は妻に言い聞かせた。「後の方に旧《もと》の入口があるがね、そこは今物置に成てる。僕等が入って来たところは、先に住んだ人が新規に造《こしら》えた入口だ。どうも、酷《ひど》い住方をして行ったものサ。壁を張る、畳を取替える――漸《ようや》くこれだけに家らしくしたところだ。この炉も僕が来てから造り直した」
書生は物置部屋の方から奥の洋燈《ランプ》を点《つ》けて出て来た。三吉はそれを受取って、真暗な台所の方へ妻を連れて行て見せた。広い板間《いたのま》、立て働くように出来た流許《ながしもと》、それからいかにも新世帯らしい粗末な道具しかお雪の目に入らなかった。台所の横手には煤けた戸があった。三吉はそれを開けて、そこに炭、薪、ボヤなどの入れてあることを言って、洋燈を高く差揚げて見せたが、お雪には暗くてよく見えなかった。
「ここをお前の部屋にするが好い」
と三吉が洋燈を持って案内したは、炉辺の次にある八畳の間で、高い天井、茶色の壁紙で貼《は》った床の間などがお雪の眼についた。奥には、これと同じ大さの部屋があって、そこには本や机が置いてある。その隣に書生の部屋がある。割合に広い住居ではあったが、なにしろ田舎臭い処であった。
停車場前で頼んで置いた荷物も届いた。夫婦は未だ汽車で動《ゆす》られているような気がした。途中から一緒に汽車に乗り込んで来た夫婦ものらしい人達は、未だ二人の前に腰掛けて二人の方を見て、何か私語《ささや》き合っているらしくも思われた。あの細君の大きな目――あの亭主の弱々しい、力のない眼――そういうものは考えたばかりでも羞恥《しゅうち》の念を起させた。二人は人に見られて旅することを羞《は》じた。どうかすると互に顔を見ることすら避けたかった。
戸の透間《すきま》が明るく成った。お雪は台所の方へ行って働いた。裏口を開けて屋外《そと》へ出てみると、新鮮な朝の空気は彼女に蘇生《いきかえ》るような力を与えた。その清々《せいせい》とした空気はお雪が吸ったことの無いようなものであった。
一晩知らずに眠った家は隣と二軒つづきの藁葺《わらぶき》の屋根であった。暗くて分らなかった家の周囲《まわり》もお雪の眼前《めのまえ》に展《ひら》けた。彼女は、桑畠《くわばたけ》の向に見える人家や樹木の間から、遠く連《つづ》いた山々を望むことの出来るような処へ来ていた。ゴットン、ゴットンと煩《うるさ》く耳についたは、水車の音であった。
裏には細い流もあった。胡頽子《ぐみ》の樹の下で、お雪は腰を曲《かが》めて、冷い水を手に掬《すく》った。隣の竹藪《たけやぶ》の方から草を押して落ちて来る水は、見ているうちに石の間を流れて行く。こういう処で顔を洗うということすら、お雪にはめずらしかった。
例の書生は手桶《ておけ》を提《さ》げて、表の方から裏口へ廻って来た。飲水を汲《く》む為には、唐松《からまつ》の枝で囲った垣根の間を通って、共同の掘井戸まで行《いか》なければ成らなかった。
前の晩に見たよりは、家の内の住み荒された光景《ありさま》も余計に目についた。生家《さと》を見慣れた眼で、部屋々々を眺めると、未だ四辺《そこいら》を飾る程の道具一つ出来ていなかった。
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