読してみた。薬の方の多忙《いそが》しいところを見て貰ったのが、何より東京への土産だ、とも話した。
「三吉さん、来て御覧なさい。君に御馳走《ごちそう》しようと思って頼んで置いた物が、漸く手に入りましたから」
 と達雄は炉辺へ三吉を呼んで言った。三吉も帰る仕度やら、土地の人の訪問を受けるやらで、心はあわただしかった。
「三吉」と姉も名残を惜むという風で、「お前さんに食べさせてもやりたいし、持たせてもやりたいと思って、今三人掛りで、この蜂《はち》の子を抜くところだ。見よや、これが巣だ。えらい大きな巣を作ったもんじゃないか」
 五層ばかりある地蜂の巣は、漆の柱を取離して、そこに置いてあった。お種はお仙やお春と一緒に、子は子、親に成りかけた蜂は蜂で、一々巣の穴から抜取っていた。この地蜂は、蜜蜂などに比べるとずっと小さく、土地の者の珍重する食料である。三吉も少年の時代には、よく人に随《つ》いて、この巣を探しに歩いたものである。
「母親さん、写真屋が来ましたから、着物を着更えて下さい」
 こう正太がそこへ来て呼んだ。
「写真屋が来た? それは大多忙《おおいそがし》だ。お仙――蜂の子はこうして置いて、ちゃっと着更えまいかや。お春、お前も仕度するが可い」とお種は言った。
「嘉助――皆な写すで来いよ」達雄は店の方を見て呼んだ。
 記念の為、奥座敷に面した庭で、一同写真を撮《と》ることに成った。大番頭から小僧に至るまで、思い思いの場処に集った。達雄は、先祖の竹翁が植えたという満天星《どうだん》の樹を後にして立った。
「女衆は前へ出るが可い」
 と達雄に言われて、お種、お仙、お春の三人は腰掛けた。
「叔父さん、貴方は御客様ですから、もうすこし中央《まんなか》へ出て下さい」
 こう正太が三吉の方を見て言った。三吉は野菊の花の咲いた大きな石の側へ動いた。
 白い、熱を帯びた山雲のちぎれが、皆なの頭の上を通り過ぎた。どうかすると日光が烈《はげ》しく落ちて来て、撮影を妨げる。急に嘉助は空を仰いで、何か思い付いたように自分の場処を離れた。
「嘉助、何処へ行くなし」とお種は腰掛けたままで聞いた。
「そこを動かない方がいいよ――今、大きな雲がやって来た。あの影に成ったところで、早速撮って貰おう」と正太も注意する。
「いえ――ナニ――私はすこし注文が有るで」
 と言って、嘉助は皆なの見ている前を通って、一番日影に成りそうな場処を択んだ。丁度旦那と大番頭とは並んだ。待設《まちもう》けた雲が来た。若い手代の幸作、同じく嘉助の忰《せがれ》の市太郎、皆な撮《うつ》った。


 三吉が出発の日は、達雄夫婦を始め、正太、お仙まで、朝のうちに奥座敷へ集った。三吉も夏服に着更えて、最早《もう》秋海棠《しゅうかいどう》などの咲出した裏庭を皆なと一緒に眺めながら、旅の脚絆《きゃはん》を当てた。ここへ来がけに酷《ひど》く馬車で揺られたと言って、彼は背中のある部分だけ薄く削取《けずりと》られたような上着を着ていた。
 三吉がこの山の中で書いたものは――達雄夫婦の賜物《たまもの》のように――手荷物の中に納めてあった。彼の心は暗い悲惨な過去の追想から離れかけていた。その若い思想《かんがえ》を、彼は静かなところで纏《まと》めてみたに過ぎなかった。
 通いで来る嘉助親子も、東京の客が発つというので、その朝は定時《いつも》より早く橋を渡って来た。
 朝飯の後、一同炉辺で別離《わかれ》の茶を飲だ。姉は名残が尽きないという風で、
「でも、よく来てくれた。何時でも来られそうなものだが、なかなか思うようにはいきません」
「どうして、それどこじゃない」と嘉助も引取って、「三吉様はこれで何度|郷里《くに》へ帰らッせるなし」
「僕ですか、ずっと前に老祖母《おばあ》さんの死んだ時に一度、母親《おっか》さんの葬式の時に一度――今度で三度目です」と三吉が言う。
「彼《あれ》は八歳《やっつ》の時分に郷里《くに》を出たッきりよなし」とお種は嘉助の方を見て。
「これで、旧《むかし》の家でも焼けずに在ると、帰る機会が多いんだがナア」と達雄も快濶《かいかつ》らしく笑った。
 前の晩のうちに頼んで置いた乗合馬車の馬丁《べっとう》が、その時、庭口へ声を掛けに来た。
「叔父さん、馬車が来ました」と正太が言って、叔父の手荷物を提《さ》げながら、一歩《ひとあし》先《さき》へ出て行った。
「では、私はここで御免蒙りますから――」とお種は炉辺で弟に別離《わかれ》を告げた。
「皆さんに宜敷《よろしく》――実にも御無沙汰《ごぶさた》するがッて、宜敷言っておくれや――お前さんもまあ折角《せっかく》御無事で――」
 挨拶《あいさつ》もそこそこに、三吉はお仙やお春などにも別れて、橋本の家を出た。達雄はそこまで見送ると言って、三吉と一緒に石段を降りた。
 崖下《がけした》には乗合馬車が待っていた。車の中には二三の客もあった。この車はお六|櫛《ぐし》を売る宿《しゅく》あたりまでしか乗せないので、遠く行こうとする旅人は其処《そこ》で一つ山を越えて、更に他の車へ乗替えなければ成らなかった。
「直樹さんと来た時は沓掛《くつかけ》から歩きましたが、途中で虻《あぶ》に付かれて困りましたッけ」
「ええ、蠅《はえ》だの、蚋《ぶよ》だの……そういうものは木曾路《きそじ》の名物です。産馬地《うまどこ》の故《せい》でしょうね」
 こんな言葉を、三吉と正太とは車の上と下とで取換《とりかわ》した。
 ノンキな田舎のことで、馬車は容易に出なかった。三吉は車の周囲《まわり》に立って見送っている達雄や嘉助や若い手代達にも話しかける時はあった。待っても待っても他に乗合客が見えそうもないので、馬丁《べっとう》はちょっと口笛を吹いて、それから手綱《たづな》を執った。車は崖について、朝日の映《あた》った道路を滑《すべ》り始めた。二月ばかり一緒にいた人達の顔は次第に三吉から遠く成った。

        三

 弟の三吉が帰るという報知《しらせ》を、実は東京の住居《すまい》の方で受取った。小泉の実と橋本の達雄とは、義理ある兄弟の中でも殊《こと》に相許している仲で、旧《ふる》い家を相続したことも似ているし、地方の「旦那衆」として知られたことも似ているし、年齢《とし》から言ってもそう沢山違っていなかった。
 実は、達雄のように武士として、又薬の家の主人《あるじ》としての阿爺《おやじ》を持たなかったが、そのかわりに、一村の父として、大地主としての阿爺を持った。父の忠寛は一生を煩悶《はんもん》に終ったような人で、思い余っては故郷を飛出して行って国事の為に奔走するという風であったから、実が十七の年には最早家を任せられる程の境涯にあった。彼は少壮《としわか》な孝子で、又|可傷《いたま》しい犠牲者であった。父の亡くなる頃は、彼も地方に居て、郡会議員、県会議員などに選ばれ、多くの尊敬を払われたものであったが、その後都会へ出て種々な事業に携《たずさわ》るように成ってから、失敗の生涯ばかり続いた。製氷を手始めとして、後から後から大きな穴が開いた。
 不図《ふと》した身の蹉跌《つまずき》から、彼も入獄の苦痛を嘗《な》めて来た人である。赤|煉瓦《れんが》の大きな門の前には、弟の宗蔵や三吉が迎えに来ていて、久し振で娑婆《しゃば》の空気を呼吸した時の心地《こころもち》は、未だ忘れられずにある。日光の渇《かわき》……楽しい朝露……思わず嬉しさのあまりに、白い足袋跣足《たびはだし》で草の中を飛び廻った。三吉がくれた巻煙草《まきたばこ》も一息に吸い尽した。千円くれると言ったら、誰かそれでも暗い処へ一日来る気は有るか、この評定《ひょうじょう》が囚人の間で始まった時、一人として御免を蒙《こうむ》ると答えない者はなかった。その娑婆で、彼は新しい事業を経営しつつあるのである。
 直樹の父親もまた同郷から出て来た事業家であった。この人と実兄弟とは、長い間、親戚のように往《い》ったり来たりした。直樹の父親の旦那《だんな》は、伝馬町《てんまちょう》の「大将」と言って、紺暖簾《こんのれん》の影で采配《さいはい》を振るような人であったが、その「大将」が自然と実の旦那でもあった。旦那は、実の開けた穴を埋めさせようとして、更に大きく注込《つぎこ》んでいた。
 格子戸の填《はま》った、玄関のところに小泉商店とした看板の掛けてある家の奥で、実は狭い庭の盆栽に水をくれた。以前の失敗に懲りて、いかなる場合にも着物は木綿で通すという主義であった。彼の胸には種々なことがある。故郷の広い屋敷跡――山――畠――田――林――すべてそういう人手に渡って了《しま》ったものは、是非とも回復せねばならぬ。祖先に対しても、又自分の名誉の為にも。それから嵩《かさ》なり嵩なった多くの負債の仕末をせねば成らぬ。
 新しく起って来た三吉が結婚の話――それも良縁と思われるから、弟に勧めて、なるべく纏《まと》まるように運ばねばならぬ。こう思い耽《ふけ》っているところへ、弟が旅から帰って来た。
「只今《ただいま》」
 と三吉は玄関のところから日に焼けた顔を出した。


 もし正太に適当な嫁でも有ったら、こんなことまで頼まれて帰って来た三吉の眼には、いかにも都の町中《まちなか》の住居《すまい》が窮屈に映った。玄関の次の部屋には、病気でブラブラしている宗蔵兄がいる。片隅《かたすみ》へ寄せて乳呑児《ちのみご》が寝かしてある。縁側のところには、姪《めい》のお俊が遊んでいる。その次の長火鉢《ながひばち》の置いてある部屋は勝手に続いて、そこには嫂《あによめ》のお倉と二十《はたち》ばかりに成る下女とが出たり入ったりして働いている。突当りの窓の外は直ぐ細い路地で、簾越《すだれご》しに隣の家の側面も見える。
 夕飯時に近かった。実は長火鉢の側に膳《ぜん》を控えて、先ずオシキセをやりながら、三吉から橋本の家の様子を簡単に聴取《ききと》った。
「木曾の姉さんからの御土産《おみやげ》です」
 とお倉はオズオズとした調子で言って、三吉が持って来た蜂の子の煎付《いりつ》けたのを皿に載せて出した。
 実が家長としての威厳は何時《いつ》までも変らなかった。彼は、家の外では極《きわ》めて円滑な人として通っていたが、家の者に対《むか》っては厳格過ぎる位。丁度|往時《むかし》故郷の広い楽しい炉辺《ろばた》で、ややもすると嫌味《いやみ》なことを言う老祖母《おばあ》さんを前に置いて、碌々《ろくろく》口も利《き》かずに食った若夫婦の時代と同じように、何時まで経ってもそう打解けた様子を妻に見せなかった。
「お種さんも御変りは御座いませんか」
 こうお倉は三吉に尋ねながら、弟や娘の為にも膳を用意した。
 宗蔵は三吉と相対《さしむかい》に胡坐《あぐら》にやった。「どうも胡坐をかかないと、食ったような気がしないネ――へえ、久し振で田舎《いなか》の御馳走《ごちそう》に成るかナ」
 こんなことを言って、細く瘠《や》せた左の手で肉叉《ホオク》や匙《さじ》を持添えながら食った。宗蔵は箸《はし》が持てなかった。で、こういうものを買って宛行《あてが》われている。
「宗さん、不相変《あいかわらず》いけますね」と三吉が戯れて言った。
「不相変いけますねとは、失敬な」と宗蔵は叱るように。
「ええええ、いけるどころじゃない」とお倉は引取って、「病人のくせに、宗さんの食べるには驚いちまう」
 宗蔵は兄の前をも憚《はばか》らないという風で、食客同様の人とも見えなかった。それがまた実には小癪《こしゃく》に触《さわ》るかして、病人なら病人らしくしろという眼付をしたが、口に出して何も言おうとはしなかった。平素《ふだん》から実は宗蔵とあまり言葉も交さなかった。唯――「一家の団欒《だんらん》、一家の団欒」この声が絶ず実の心の底に響いていた。
 食後に、三吉は番茶を飲みながら、旅の話を始めた。実は娘の方を見て、
「俊、お前の習った画を三吉叔父さんにお目に懸けないか」
 こう言われて、お俊は奥座敷の方から画手本だの画草紙だのを持って来た。
「お蔭様で、彼女《あれ
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