て、すこし紅くなった。お仙も無心に眺めていた。
 手を洗った後、正太は三吉叔父と一緒に成った。二人は話し話し母屋の方へ帰って行った。
 手桶を担《かつ》いだお春は威勢よく二人の側を通った。百姓の隠居も会釈して通った。隠居の眼は正太に向って特別な意味を語った。「若旦那様――お前さまは唯の若いものの気でいると違うぞなし……お前さまを頼りにする者が多勢あるぞなし……行く行くはお前様の厄介に成ろうと思って、こうして働けるだけ働いている老人《としより》もここに一人居るぞなし……」とその無智な眼が言った。
 正太は一種の矜持《ほこり》を感じた。同時に、この隠居にまで拝むような眼で見られる自分の身を煩《うるさ》く思った。
 漠然《ばくぜん》とした反抗の心は絶えず彼の胸にあった。「どうしてこう家のものは皆な世話を焼きたがるだろう、どうしてこうヤイヤイ言うだろう――もうすこし自分の自由にさせて置いて貰いたい」これが彼の願っていることで、一々自分のすることを監視するような重苦しい空気には堪えられなかった。
 田舎《いなか》風の屋造《やづくり》のことで、裏口から狭い庭を通って、表の方へ抜けられる。表座敷へ通う店頭《みせさき》の庭のところで、三吉、正太の二人は沢田老人の訪ねて来るのに逢《あ》った。
「沢田さんですか。やはり吾家《うち》の内職をしています――薬の紙を折ってます」
 こう正太は三吉に話した。
 直樹の叔父にあたるこの神経質な老人の眼は、又、こんなことを言った。「正太様――お前さまの祖母様《おばあさま》や母上様《おっかさま》は皆な立派な旧家から来ておいでる……大旦那は学問を為《し》過ぎたで、それで不経済なことを為《さ》っせえたが、お前さまは算盤《そろばん》の方も好くやらんと不可《いかん》ぞなし……お前さまの責任は重いぞなし……」
 正太はこういう人々の眼から遁《のが》れたかった。


 表座敷へ戻って、向の山の傾斜がよく見えるようにと、三吉はすっかり障子を開け展《ひろ》げた。正太も広い部屋の真中へ大きな一閑張《いっかんばり》の机を持出した。こうして、二人ぎりで、楽しい雑談に耽《ふけ》るにつけても、正太はこの叔父の何時《いつ》までも書生でいられるのを羨《うらや》ましく思った。叔父がここへ来て何を為ようと、何を考えようと、誰一人気を揉《も》む者も無い。それに引きかえて、正太は折角《せっかく》思い立った東京の遊学すら、中途で空《むな》しく引戻されて了った。やれ大旦那が失敗したから、若旦那には学問は無用だことの、やれ単独《ひとり》で都会に置くのは危いことの、種々な故障が薬方の衆から出た。「家なぞはどうでもいい」と思うことは屡々《しばしば》有ったのである。
 この座敷から谷底の方に聞える木曾川《きそがわ》の音も、正太には何の新しい感じを起させなかった。彼は森林の憂鬱にも飽き果てた。「こうして――一生――山の中に埋れて了《しま》うのかナア」それを考えてみたばかりでも、彼には堪え難かった。どうかすると、彼は話の途中で耳を澄ました。そして、引入れられるような眼付をして、熟《じっ》と渓流の音に聞き入って。
 お種が入って来た。
「ネブ茶を香ばしく入れましたから、持って来ました」とお種は款待顔《もてなしがお》に言て、吾子《わがこ》と弟の顔を見比べて、「正太や、叔父さんにも注《つ》いで進《あ》げとくれ」
 この「ネブ茶」はある灌木《かんぼく》の葉から製したもので、三吉も子供の時分には克《よ》く飲み慣れた飲料である。
「どうでした、吾家《うち》の蔵には三吉の見るような書物《ほん》が有りましたか」とお種が聞いた。
「ええ……有りました」と三吉は気の無い返事をする。
 お種は、二人が睦《むつ》まじそうに語る様子を眺めて、やがて出て行った。
 若いもの同志の話は木曾|少女《おとめ》の美しいことに落ちて行った。その時、三吉は姉から聞いた娘のことを言出して、正太の意中を叩《たた》いてみた。正太は、唯、あわれに思うというだけのことを泄《も》らした。彼の心では、そんな話を聞いて貰う前に、何故《なぜ》に自分の恋が穢《けが》れて行くかを語りたかったのである。
 暫時《しばらく》二人は無言でいた。
「しかし、叔父さん――この町にも種々《いろいろ》な青年が有りますがね、どうも家にばかり居るような人は面白味が有りません……やっぱり働きもすれば遊びもする、そういう人の方が話せるようですね」こう正太が言出した。


 香ばしい「ネブ茶」を飲み、巻煙草《まきたばこ》を燻《ふか》しながら、叔父|甥《おい》は話し続けた。正太の方は実業に志し、東京へ出た時は主に塗物染物のことを調べ、傍《かたわ》ら絵画の知識をも得ようとしたものであったが、性来物を感受《うけい》れる力に富むところから、三吉などの向いて行こうとする方面にも興味を感じている。その日も、三吉の書きかけた草稿を机の上に展《ひろ》げて、清《すず》しい、力のある父の達雄に克《よ》く似た声で読聞かせた。
 東京で送った二年――殊《こと》にその間の冬休を三吉叔父と一緒に仙台で暮したことは、正太に取って忘れられなかった。東京から押掛けて行くと、丁度叔父は旅舎《やどや》の裏二階に下宿していて、相携えて人を訪ねたり、松島の方まで遊びに行ったりした。あの時も、仙台で、叔父の書いたものを見せて貰って、寂しい旅舎の洋燈《ランプ》の下でその草稿を読み聞かせながら、一緒に長い冬の夜を送ったことが有った。それを正太は言出さずにいられなかった。
「そうそう」と三吉も思出したように、「丁度岩沼の基督降誕祭《クリスマス》に招ばれて行った後へ、君が訪ねて来て……あんな田舎らしい基督降誕祭に遭遇《であ》ったことは僕も始めてでしたよ……信者が五目飯なぞを煮《た》いて御馳走《ごちそう》してくれましたッけ。あの晩は長老の呉服屋さんの家に泊って、翌朝《あくるあさ》阿武隈川《あぶくまがわ》を見に行って、それから汽車で仙台へ帰てみると、君が来ていた……」
「そうでしたね……あの二階から海の音なぞも聞えましたね」と正太は若々しい眼付をして言った。
「仙台は好かったよ。葡萄|畠《ばたけ》はある、梨畠はある……読みたいと思う書籍《ほん》は何程《いくら》でも借りて来られる……彼処《あすこ》へ行って僕も夜が明けたような気がしたサ……あれまでというものは、君、死んでいたようなものだったからね」と言って、三吉は深い溜息《ためいき》を吐《つ》いて、「考えてみると、僕のような人間がよく今まで生きて来たようなものだ」
 正太は叔父の顔を眺めた。
 三吉は言葉を継いで、「彼処へ着いた晩から、僕は最早《もう》別の人だった。種々な物が活《い》きて見えて来た。書く気も起った……」
「あの時叔父さんの書いたものは、吾家《うち》に蔵《しま》ってあります」
「しかし正太さん、お互にこれからですネ。僕なぞも未だ若いんですから、これから一つ歩き出してみようと思いますよ……」
 こんな話をしているところへ直樹が入って来た。直樹は中学に入ったばかりの青年で、折取った野の花を提げて、草臥《くたぶ》れたような顔付をしながら屋外《そと》から帰って来た。
「直樹さん、何処《どちら》へ?」と三吉が聞いてみた。
「ええ――ずっと河の岸を廻って来ました」と直樹は答える。
 その時、正太は床の間にある花瓶《かびん》を持出して、直樹が持って来た百合だの撫子《なでしこ》だのの花で机の上を飾った。
「兄さん、山脇《やまわき》の姉さんがチト御遊びに被入《いら》っしゃいッて――真実《ほんとう》に兄さんは遠慮深い人だって」
 こう直樹が自分の親戚からの言伝《ことづて》を三吉に告げた。三吉はあまり町の人を訪問する気が無かった。
 活気のある鈴の音が谷底の方で起った。急に正太は輝くような眼付をして、その音のする方を見た。
「ア――御岳《おんたけ》参りが着いたとみえるナ」
 と正太は独語《ひとりごと》のように言った。高山の頂を極《きわ》めようとする人達が、威勢よく腰の鈴をチリンチリンチリンチリン言わせて、宿屋に着くことを楽みにして来る様子は、活気が外部《そと》からこの谷間《たにあい》へ流れ込むように聞える。正太は聞耳を立てた。その音こそ彼が聞こうと思うものである。彼は縁側にまで出て聞いた。


 祭の日は橋本でも一同仕事を休んだ。薬の看板を掛け、防火用の黒い異様な大団扇《おおうちわ》を具《そな》え付けてある表門のところには、時ならぬ紅白の花が掛かった。小僧達も新しい仕着《しきせ》に着更えて、晴々しい顔付をして、提灯《ちょうちん》のかげを出たり入ったりした。
 お種は表座敷へ来て、
「三吉、お前さんは羽織が有るまいがナ」
 と弟の顔を眺めた。三吉もサッパリとした単衣《ひとえ》に着更えていた。
「羽織なんか要《い》りません。これで沢山です」と三吉が言った。
「正太の紋付を貸すで――今に吾家《うち》の前を御輿《みこし》が通るから、そうしたら兄さん達と一緒に出て見よや」
「借着をして祭を見るのも変なものですナア」
「何が変なものか。旅では、お前さん、それが普通《あたりまえ》だ」
「私はどうでも可《よ》う御座んすが、姉さんが着た方が可いと思うなら、借りましょう――」
 旅で祭に遇《あ》った直樹は、方々の親類から招《よ》ばれて、出て行った。正太を始め、薬方の若衆も皆な遊びに出た。町の方が賑《にぎや》かなだけ、家の内は寂しい。
「姉さん」と三吉は、姉が羽織を出しに行く序《ついで》に、物を頼むという風で、「この節私は夢を見て困りますが、身体《からだ》の故《せい》じゃないかと思うんです……サフランでも有るなら、すこし私に飲ましてくれませんか」
「そんなことは造作ない。吾家《うち》にあるから、くれる」
「母親《おっか》さんが生きてる時分には、時々私に飲ましてくれましたッけ――女の薬だが、飲めッて」
「ええ、男子《おとこ》にも血が起るということは有るで」
 こう言って、お種は出て行った。やがて橋本の紋の付いた夏羽織と、薬草の袋と、水とを持って来た。紅いサフランの花弁《はなびら》は、この家で薬の客に出す為に特に焼かした茶椀の中へ浸して、それを弟に勧める。
「どんな夢を見るよ」と姉が聞いた。
「私の夢ですか」と三吉は顔に苦痛を帯びて、「友達の中には、景色の夢を見るなんて言う人も有りますがね、私は景色なぞを一度も見たことが無い。夢と言えば女が出て来る」
「馬鹿らしい!」と姉は嘲《あざけ》るように。
「いえ、姉さん、私は正直なところを話してるんです。だからこんな薬なぞを貰って飲むんです」
「お前さんの知ってる人かい」
「ところが、それが誰だか解らない。どう後で考えても、記憶《おぼえ》の無いような人が出て来るんです――多くは、素足で――火傷《やけど》でもしそうな、恐しい勢で。昨夜なぞは、林檎畠《りんごばたけ》のようなところへ追詰められて、樹と樹の間へ私の身体が挾《はさま》って、どうにも逃げ場を失って了った……もうすこしで其奴《そいつ》に捕まるかしらん……と思ったら目が覚《さ》めました。汗はビッショリ……」
「お前さん達の見る夢は、どうせそんなものだ」
 と姉は復《ま》た嘲るように笑った。
 御輿の近づいたことを、お仙が報《しら》せに来た。女連《おんなれん》は門の外まで出た。そこから家々の屋根、町の中央を流れる木曾川が下瞰《みおろ》される。三吉は長過ぎるような羽織を借りて着て、達雄と一緒に崖《がけ》の下へ降りた。



 御輿の通り過ぎた後、お種は娘に下婢《おんな》を付けて祭を見せにやり、自分は門の内へ引返した。店口の玄関のところには、手代の幸作が大きな薬の看板に凭《もた》れながら、尺八を吹いて遊んでいたが、何時《いつ》の間にかこれも出て行った。広い家の内にはお種一人残った。
 急に周囲《そこいら》が闃寂《しんかん》として来た。寺院《おてら》のように人気《ひとけ》が無かった。お種は炉辺《ろばた》に坐って独《ひと》りで静かに留守居をした。この祭には、近在の若い男女《おとこおんな》は
前へ 次へ
全30ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング