の許《とこ》へでも遊びに行ったんでしょう」とお俊が答える。
「俊、鶴《つう》ちゃんの免状は何処にあったっけねえ。伯母さんにお目に掛けたら……まあ、あの娘《こ》も学校が好きでして、試験と言えば賞を頂いて参ります」
こんな話をしながら、お倉は吸付けた長煙管の口を一寸袖で拭《ふ》いて、款待顔《もてなしがお》にお種の方へ出した。狭い廂間《ひあわい》から射し入る光は、窓の外を明るくした。簾《すだれ》越しに隣の下駄職《げたしょく》の労苦する光景《さま》も見える。溝《どぶ》の蒸されるにおいもして来る。
母に言付けられて、お俊は次の間に置いてある桐《きり》の机の方へ行った。実の使用《つか》っていた机だ。その抽匣《ひきだし》の中から、最近に来た父の手紙を取出した。
お倉は鼠色の封筒に入った獄中の消息をお種に見せて、声を低くした。「ここにも御座います通り、橋本さんへも宜敷《よろしく》申すようにッて」
「実は何事《なんに》も外部《そと》のことを知らずにいるんでしょうよ」とお種は嘆息した。
暫時《しばらく》女同志は無言でいた。お倉は聞いて貰う積りで、
「なにしろ、貴方、長い間の留守ですから、私も途方に暮れて了いましたよ……こんな町中に住まわないたって、もっと御屋賃の御廉《おやす》い処へ引越したら可かろうなんて、三吉さんもそう言いますんですけれど、ここの家に在《あ》る道具は皆な、貴方|差押《さしおさえ》……娘達を学校へ通わせるたって、あんまり便利の悪い処じゃ困りますし……それに、私共の借財というのが……」
次第に掻口説《かきくど》くような調子を帯びた。お倉の癖で、枝に枝がさして、終《しまい》には肝心の言おうとすることが対手《あいて》に分らないほど混雑《こんがら》かって来た。
「あれで、森彦も自分の事業の方の話は何事《なんに》もしない男ですが――」とお種はお倉の話を遮《さえぎ》った。「貴方の方に、郷里《くに》に、自分の旅舎《やどや》じゃ……どうしてナカナカ骨が折れる。考えてみると、よく彼《あれ》もやったものです」
「真実《ほんと》に、森彦さんには御気の毒で」
「彼の旅舎へ行ってみますとネ、それはキマリの好いものですよ。酒を飲むじゃなし、煙草を燻《ふか》すじゃなし……よくああ自分が責められたものだと思って、私は何時でも感心して見て来る。何卒《どうか》して彼の思うことも遂げさして遣りたいものですよ」
身内のものの噂は自然と宗蔵のことに移った。
「宗さんですか」とお倉はさもさも厄介なという風に、「世話してくれてる人がよく来て話します。まあ心《しん》はどれ程|御強健《ごじょうぶ》なものか知れませんなんて……こういう中でも、貴方、月々送るものは送らなけりゃ成りません。森彦さんも御大抵じゃ有りませんサ」
「彼は小泉の家に附いた厄介者です。どうしてまたあんな者が出来たものですかサ」
「もう少し病人らしくしていると可いんですけれど、我儘《わがまま》なんですからねえ――森彦さんはああいう気象でしょう、真実《ほんと》に宗蔵のような奴は……獣《けだもの》ででもあろうものなら、踏殺してくれたいなんて……」
お倉やお種が笑えば、お俊も随《つ》いて笑った。この謔語《じょうだん》は、森彦でなければ言えないからであった。
やがて別れる時が来た。
「三吉さんの許《ところ》へいらっしゃいましたら、俊や鶴のことを宜敷《よろしく》御願い申しますッて、そう仰って下さい……何卒《どうか》……」
こう力を入れて頼むお倉の言葉を聞て、お種は小泉の家を出た。
東京を発《た》つ朝は、お種は豊世やお俊やお鶴などに見送られた。豊世は幾度か汽車の窓の下へ来て、涙ぐんだ眼で姑の方を見た。
十
一年余旅の状態《ありさま》を続けて、漸《ようや》くお種は弟の家まで辿《たど》り着いた。三吉は遠く名倉の家の方から帰って来て、お雪と共に姉を待受けているところで有った。
「オオ、橋本の姉さん――」
とお雪は台所から飛んで出て来て、襷《たすき》を除《はず》しながら迎えた。
奥の部屋へ案内されたお種の周囲《まわり》には、三吉夫婦を始め、子供等がめずらしそうに集った。お種は、狭隘《せせこま》しい都会の中央《まんなか》から、水車の音の聞えるような処へ移って、弟等と一緒に成れたことを喜んだ。彼女は別に汽車にも酔わなかったと言った。
「房《ふう》ちゃん、橋本の伯母さんだが、覚えているかい」と三吉は年長《うえ》の娘に尋た。
「一度汽車の窓で逢《あ》ったぎりじゃ、よく覚えが有るまいテ」と言って、お種はお房の顔を眺《なが》めて、「どうだ、伯母さんのような気がするか」
「皆な大きくなりましたろう」
「菊《きい》ちゃんの大きく成ったには魂消《たまげ》た。姉さんの方と幾許《いくら》も違わない」
お種はそこに並んでいる二人の娘を見比べた。
「へえ、こういうのが今年出来ました。見て下さい」とお雪は次の部屋に寝かしてあった乳呑児《ちのみご》を抱いて来て見せた。
三番目もやはり女の児で、お繁《しげ》と言った。お繁は見慣れない伯母を恐れて、母の懐《ふところ》へ顔を隠したが、やがてシクシクやり出した。お雪は笑って乳房を咬《くわ》えさせる。すこし慣れるまで、他《よそ》の方を向いていようなどと言って、お種も笑った。
「房ちゃんは幾歳《いくつ》に成るの?」とお種が手土産《てみやげ》を取出しながら聞いた。
「伯母さんが何歳に成るッて」とお雪も言葉を添える。
「ね、房ちゃんがこれだけで、菊ちゃんがこれだけ」とお房は小さな掌《て》を展《ひろ》げて、指を折って見せた。
「フウン――お前さんが五歳《いつつ》で、菊ちゃんが三歳《みっつ》――そう御悧好《おりこう》じゃ、御褒美《ごほうび》を出さずば成るまい――菊ちゃんにも御土産《おみや》が有りますよ」
「御土産! 御土産!」
と二人の子供は喜んで、踊って歩いた。
「御行儀を好くしないと伯母さんに笑われますよ。真実《ほんと》にイタズラで仕方が有りません」とお雪が言った。
親達の側にばかり寄っていたお房は、直に伯母の方に行った。そして、母に勧められて、無邪気な「亀さん」の歌なぞを聞かせた。
お房の小供らしい声には、聞いている伯母に取って、幼い時分のことまでも思わせるようなものが有った。
「これはウマいもんだ」とお種は左右に首を振った。「もう一つ伯母さんに歌って聞かせとくれ……何年振で伯母さんはそういう声を聞くか知れない……」
始めて弟の家を見るお種には、草葺《わらぶき》の屋根の下もめずらしかった。お種はお雪に附いて、裏の畠《はたけ》の方まで見て廻って、復《ま》た三吉の居る部屋へ戻って来た。
「オオ、ほんに、柿の樹が有るそうな」とお種は身を曲《こご》めて、庭の隅《すみ》に垂下る枝ぶりを眺《なが》めながら、「嘉助がよく御厄介に成ったもんですから、帰って来てはその話サ――柿だの、李《すもも》だの、それから好い躑躅《つつじ》だのが植えてあるぞなしッて」
庭には桜、石南花《しゃくなげ》なども有った。林檎《りんご》は軒先に近くて、その葉の影が部屋から外部《そと》を静かにして見せた。
お雪は乳呑児を抱いて来た。「先刻《さっき》泣いたかと思うと、最早《もう》こんなに笑っています」
「ホ、御機嫌《ごきげん》が直ったそうな」とお種はアヤして見せて、「これは好い児だ」
「私共のようにこう多勢でも困りますけれど、貴方の許《ところ》でも御一人位……」
「どうも豊世には子供が無さそうですテ……」
「真実《ほんと》に、分けて進《あ》げたい位だ」と三吉が笑った。
「くれるなら貰うわい」とお種は串談《じょうだん》のように言って、「しかしこれは皆な持って生れて来るものだゲナ。持って生れて来ただけは産む……そういうように身体に具《そな》わっているものと見えるテ――授からん者は仕方ない」
「なにしろ、私のところなぞは書生ばかりで始めた家でしょう――」と三吉は言った。「菊ちゃんが出来て、私が房ちゃんを抱いて寝なければ成らない時分は、一番困りましたネ……どうしても母親でなけりゃ承知しない……寒い晩に、子供は泣通し……こんなに子供を育てるのは厄介なものかしらんと思って、実際私も泣きたい位でした」
「皆なそうして育って来たのだわい」
「よく書生時代には、男が家を持った為にヘコんで了《しま》うなんて、そんな意気地の無いことがあるもんか、と思いましたッけが――考えてみると、多くの人がヘコむ訳ですネ」
「お雪さん、貴方は今女中無しか」
「ええ、幸い好いのが見つかったかと思いましたら、養蚕をする間、親の方で帰してくれって」
「どうして、それじゃナカナカ骨が折れる」と言って、お種は家の内を眺め廻して、「しかし、お雪さん、私も御手伝いしますよ。今日からは貴方の家の人と思って下さいよ」
何となくお種は興奮していて、時々自分で制《おさ》えよう制えようとするらしいところが有る。顔色もいくらか蒼《あお》ざめて見える。三吉は姉を休ませたいと思った。
「菊ちゃん、来うや」
こう訛《なまり》のある、田舎娘らしい調子で言って、お房は妹と一緒に裏の方から入って来た。
「母さん」
お房は垣根の外で呼んだ。お菊も伯母の背中に負《おぶ》さりながら、一緒に成って呼んだ。子供は伯母に連れられて、町の方から帰ってきた。お種が着いた翌日の夕方のことである。
「オヤ、お提燈《ちょうちん》を買って頂いて――好いこと」お雪は南向の濡縁《ぬれえん》のところに立っていた。
「一寸《ちょっと》そこまで町を見に行って参りました」とお種は垣根の外から声を掛けた。お房は酸漿提燈《ほおずきちょうちん》を手にして、先《ま》ず家へ入った。つづいて伯母も入って、そこへお菊を卸した。
喜び騒ぐ二人の子供から、お雪は提燈を受取って、火を点《とぼ》した。それを各自《めいめい》に持たせた。
「菊ちゃん、そんなに振ってはいけませんよ――これは蝋燭《ろうそく》がすこし長過ぎる」とお種が言った。
「紅《あか》い紅い」とお雪はお繁を抱いて見せた。
「どれ、父さんの許へ行って見せて来ましょう」
こう言いながら、お種は子供を連れて、奥の方へ行った。
「父さん、お提燈」
とお房がさしつけて見せる。丁度三吉も一服やっているところであった。
「へえ、好いのを買って頂いたネ」
と父に言われて、子供は彼方是方《あちこち》と紅い火を持って廻った。
「私もここで一服頂かずか」とお種は三吉の前に坐った。「こういう子供の騒ぐ中で、よくそれでも仕事が出来たものだ……真実《ほんと》に、子供が有ると無いじゃ家の内が大違いだ……」
何かにつけて、お種の話は夫の噂《うわさ》に落ちて行った。何故、達雄が妻子を捨てたかという疑問は、絶えず彼女の胸を離れなかった。
「妙なものだテ」とお種は思出したように、「旦那が未だ郷里《くに》の方に居る時分――まあ、唐突《だしぬけ》と言っても唐突に、ふいとこんなことを言出した。お種、お前を捨てるようなことは決して無いで、安心しておれやッて。それが、お前さん、夢にも私はそんなことを思ったことの無い時だぞや。それを聞いた時は、私はびくッとした……」
「姉さん、そういう時分に家の方のことが幾分《いくら》か解りそうなものでしたネ」
「解るものかよ。朝から晩まで、御客、御客で。それ酒を出せ、肴《さかな》を出せ、出さなければ、また旦那が怒るんだもの。もうお前さん、ゴテゴテしていて、そんなことを聞く暇もあらすか」
「私が姉さんの許へ行った時分は、達雄さんも勉強でしたがナア」
「あの調子で行ってくれると、誠に好かった。直に物に飽きるから困る。飽きが来ると、復た病気が起る――旦那の癖なんですからネ」
「それはそうと、達雄さんも今どうしていましょう」
「どうしていることやら……」
「やはりその女と一緒でしょうか」
「どうせ、お前さん長持ちがせすか――御金が無くなって御覧なさい。何時《いつ》までそんな女が旦那々々と立てて置くもんですかね……今度は自分が捨てられる番だ……そりゃあもう、眼
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