動揺《ごたごた》してるわい……しかしネ、豊世、ここで家の整理が付きさえすれば、お前を正太《しょうた》が困らすようなことは無いぞや……」
こういう話に成ると、お種は酷《ひど》く大ザッパな物の考えようをすることが有った。往時《むかし》は橋本の家の経済まで薬方の衆が預って、お種は奥を守りさえすれば好い人であった。
翌日お種は森彦の宿の方へ移ることにした。聞いてみると、嫁の側にも落付いていることが出来なかったのである。
彼方是方《あちこち》とお種は転々して歩いた。森彦の宿に二週間ばかり置いて貰って、寺島の母が国へ帰った頃に、漸《ようや》く嫁の方へ一緒に成ることが出来た。毎日々々雨の降った揚句で、泥濘《ぬかるみ》をこねて戻って来ると、濡《ぬ》れた往来はところどころ乾きかけている。店頭《みせさき》の玻璃戸《ガラスど》はマブしいほど光っている。薄暗い壁に添うて楼梯《はしごだん》を昇ると、二階の部屋の空気は穴の中のように蒸暑かった。丁度豊世はまだ簿記の学校の方に居る時で、間に合せに集められた自炊の道具がお種の眼に映った。衣紋竹《えもんだけ》に掛けてある着物ばかりは、室内の光景《さま》に不似合なものであった……お種は、何処《どこ》へ行っても、真実《ほんとう》に倚凭《よりかか》れるという柱も無く、真実に眠られるという枕も無くなった。
その日からお種は豊世と二人で、この二階に臥《ね》たり起きたりした。姑と嫁の間には今までに無い心が起って来た。お種は、自分が夫から受けた深い苦痛を、豊世もまた自分の子から受けつつあることを知った。自分の子が関係した女――それを豊世が何時《いつ》の間にか嗅付《かぎつ》けていて、人知れずその為に苦みつつある様子を見ると、お種は若い時の自分を丁度|眼前《めのまえ》に見せつけられるような心地《こころもち》がした。
不思議にも、貞操の女の徳であるということを口の酸くなるほど父から教えられたお種には、夫と他の女との関係が一番|煩《うるさ》く光って見えた。で、お種は自分の経験から割出して、どうすれば男というものの機嫌《きげん》が取れるか、どうすれば他の女が防げるか、そういう女としての魂胆を――彼女が考え得るかぎり――事細かに嫁の豊世に伝えようと思った。夏の夜の寝物語に、お種は姑として言えないようなことまで豊世に語り聞かせた。こんな風にして、姑と嫁との隔てが取れて来た。二人は親身の親子のように思って来た。
ある日、豊世はお種に向って、
「母親さん、今まで貴方には隠していましたが……真実《ほんとう》に父親《おとっ》さんのことを言いましょうか」
こう言出した。お種は嫁の顔をつくづくと眺《なが》めて、
「復た……母親さんを担《かつ》ごうなんと思って……」
「いえ、真実に……」
「豊世や、お前は真実に言う気かや……待てよ、そんなこと言われただけでも私は身体がゾーとして来る……」
その時始めて、お種は夫の滞在地《ありか》を知った。支那へ、とばかり思っていた夫はさ程遠くは行っていなかった。国に居る頃から夫が馴染《なじみ》の若い芸者、その人は新橋で請出《うけだ》されて行って、今は夫と一緒に住むとのことであった。
「大方、そんなことだらずと思った」
とお種は苦笑《にがわらい》に紛《まぎらわ》したが、心の中には更に種々な疑問を起した。
八月には、お種は東京で三吉を待受けた。この弟に逢《あ》われるばかりでなく、久し振りで姉弟《きょうだい》や親戚のものが一つ処に集るということは、お種に取って嬉しかった。豊世もまだ逢ってみたことの無い叔父の噂《うわさ》をした。
「橋本さんは是方《こちら》ですか」
店頭《みせさき》の玻璃戸に燈火《あかり》の映る頃、こう言って訪ねて来たのは三吉であった。丁度お種や豊世は買物を兼ねてぶらぶら町の方へ歩きに行った留守の時で、二階を貸している内儀《かみさん》が出て挨拶《あいさつ》した。
三吉は自分の旅舎《やどや》の方で姉を待つことにして、皆なと一緒に落合いたいと言出した。「では、御待ち申していますから、明日の夕方からでも訪ねて来るように」こう内儀に言伝《ことづて》を頼んだ。
やがて三吉は自分の旅舎を指して引返して行った。その夏、彼は妻の生家《さと》の方まで遠く行く積りで、名倉の両親を始め、多くの家族を訪ねようとして、序《ついで》に一寸《ちょっと》東京へ立寄ったのであった。
久し振で出て来た三吉は翌日《あくるひ》一日宿に居て、親戚のものを待受けた。森彦は約束の時間を違《たが》えずやって来た。三吉はこの兄を二階の座敷へ案内した。そこに来ていたお雪の二番目の妹にあたるお愛にも逢わせた。
「名倉さんの?」と森彦は三吉の方を見て、「先《せん》に修業に来ていた娘はどうしたい」
「お福さんですか。あの人は卒業して帰りました。もう旦那さんが有ります」
「早いものだナ。若い人のズンズン成人《しとな》るには魂消《たまげ》ちまう――兄貴の家の娘なぞも大きく成った――そう言えば、俺《おれ》の許《とこ》のやつも、来年あたりは東京の学校へ入れてやらなきゃ成るまいテ」
水色のリボンで髪を束ねた若々しいお愛の容子《ようす》を眺めながら、森彦は国の方に居る自分の娘達のことを思出していた。
「お愛さん、貴方はもう御帰りなさい。保証人の方へ廻って、認印《みとめ》を貰って行ったら可いでしょう」
と三吉に言われた、お愛は娘らしく顔を紅めて、学校の方へ帰る仕度をした。
間もなく三吉は兄と二人ぎりに成った。森彦は夏羽織を脱いで、窓に近く胡坐《あぐら》をかいた。達雄や実の噂《うわさ》が始まった。
「いや、エライことに成って来た。四方八方に火が点《つ》いたから驚く」と森彦が言出した。
三吉も膝《ひざ》を進めて、「しかし、橋本の方なぞは、一朝一夕に起った出来事じゃないんでしょうネ。私が橋本へ行ってた時分――あの頃のことを思うと、ナカナカ達雄さんも好く行《や》っていましたッけがナア――非常な奮発で。それともあの頃が一番好い時代だったのかナア」
「なにしろ、お前、正太の婚礼に千五百両も掛けたとサ。そういうヤリカタで押して行ったんだ」
「姉さんなぞが又、どうしてそこへ気が着かずにいたものでしょう」
「そりゃ、心配は無論仕ていたろうサ。細君が帯を欲しいと言えば帯を買ってくれる、着物が欲しいと言えば着物を買ってくれる――亭主に弱点《よわみ》が有るからそういうことに成る。姉さんの方ではそうも思わないからネ。まあ、心配はしても、それほどとは考えていなかったろうサ」
好い加減にこういう話を切上げて、三吉はこの兄の直接関係したことを聞いてみようとした。達雄のことに就《つ》いて、尋ねたいことは種々あった。先《ま》ず夕飯の仕度を宿へ頼んだ。
この町中にある旅舎《やどや》の二階からは、土蔵の壁、家の屋根、樹木の梢《こずえ》などしか見えなかった。しかし割合に静かな座敷で、兄弟が話をするには好かった。
「どうして達雄さんのような温厚《おとな》しい人に、あんな思い切ったことが言えたものかしらん」こう森彦が言出した。「そりゃお前、Mさんと俺とでわざわざ名古屋まで出張して、達雄さんの反省を促しに行ったことが有るサ」
「よくまた名古屋に居ることが分りましたネ」と三吉は茶を入れ替えて兄に勧めながら言った。
「段々|詮索《せんさく》してみると、達雄さんが家を捨てて出るという時に、途中である銀行から金を引出して、それで芸者を身受けして連れて行った。それが新橋の方に居た少婦《おんな》さ……その時Mさんが、どうしても橋本は名古屋に居るに相違ない。俺にも行け、一緒に探せという訳で、それから名古屋に宿をとってみたが、さあ分らない。宿の内儀《かみさん》はやはりそれ者《しゃ》の果だ。仕方がないから、内儀に事情を話して、お前さんが探出したら礼をすると言ったところが、内儀は内儀だけに、考えた。なんでもそういう旦那には、なるべく早く金を費《つか》わして了うというのが、あの社会の法だとサ。では、十円出して下さい、私も身体が悪いから保養を兼ねて心当りの温泉へ行って見て来る、名古屋に二人が居るものなら必ずその温泉へ泊りに来る、こう内儀が言って探しに行ってくれた。果して一週間ばかり経つと、直ぐ来いという電報だ。そこで俺が飛んで行った。まだ蚊帳《かや》が釣ってあって、一方に内儀、一方にMさん、とこう達雄さんを逃がさないように附いて寝ていた。達雄さんが俺の方を向いたその時の眼付というものは……」
森彦は何か鋭く自分の眼でも打ったという手付をして見せて、言葉を続けた。
「それから、Mさんと俺とで、懇々説いてみた。実に平素《ふだん》の達雄さんには言えないようなことを言ったよ――自分は何もかも捨てたものだ――妻があるとも思わんし、子があるとも思わん――後はどう成っても関《かま》わないッて。最早《もう》仕方無い。その言葉を聞いて、吾儕《われわれ》は別れた」
「エライ発心《ほっしん》の仕方をしたものだ。坊主にでも成ろうというところを、少婦《おんな》を連れて出て行くなんて」
と三吉は言ってみたが、曾《かつ》て橋本の家の土蔵の二階で旧《ふる》い日記を読んだことのある彼には、この洒落《しゃらく》と放縦とで無理に彩色《いろどり》してみせたような達雄の家出を想像し得るように思った。いかに達雄が絶望し、狼狽《ろうばい》したかは、三吉に悲惨な感《かんじ》を与えた。
「あの時|吾儕《われわれ》の会見したことは、ちゃんと書面に製《こしら》えて、一通は記念の為に正太へ送ったし、一通は俺の許《とこ》に保存してある」こう森彦は物のキマリでもつけたように言った。
「姉さんは委《くわ》しいことを知っていましょうか」
「これがまた難物だテ。気でも違えられた日には大事《おおごと》だからネ。まあソロソロと耳に入れた。その為にああして長く伊東に置いて、なるべく是方《こっち》の話は聞かせないようにしたよ」
その時|下婢《おんな》が夕飯の膳を運んで来た。三吉は下婢を返して、兄弟ぎりで話しながら食うことにした。
「どれ御馳走に成ろうか」と森彦は性急な調子で言って、箸《はし》を取上げた。「兄貴の家にも弱ったよ。ホラ、お前の許《とこ》のお雪さんが先頃|拝跪《はみ》に来て、当分仕送りは出来ないッて断ったもんだから、俺の方でどうにかしてやらなくちゃ成らない……しかし、お前も御苦労だった。お互に長い間のことだから。加《おまけ》に、各自《めいめい》家族を控えてると来てる」
「実際、私の方にも種々な事情が有りましてネ。学校の貧乏なところへもって来て、町や郡からの輔助は削《けず》られる、それでも教員の数は増《ふや》さんけりゃ手が足りない。私も見かねて、俸給を割《さ》くことにしました……まあ、当分輔助は覚束《おぼつか》ないものと思って下さい……そのかわり橋本の姉さんは私の方へ引取りましょう。今度その積りで出て来ました」
「アア、そうか。そうして貰えると、姉さんの為にも好かろう」
こんな話をして、やがて食う物は食い、喋舌《しゃべ》ることは喋舌ったという風に、森彦は脱いで置いた羽織を引掛けた。
「最早《もう》姉さんも見えそうなものだ」と三吉が言った。「夕飯でも済ましてから来ると見えるナ」
森彦は羽織の紐《ひも》を結びながら、「今夜は俺の許へ話に来る人が有る。一寸用がある。これで俺は失礼します。それじゃ御馳走に成りました」
「まあ、可いじゃ有りませんか。もう少し話して行ったら」
「いや、復《ま》た逢えたら逢おう。名倉さんへも、皆さんに宜敷《よろしく》」
紳士風の夏帽子を手に持って出て行く森彦を送って、間もなく三吉は姉を迎えた。
お種は豊世を連れて三吉に逢いに来た。三吉とお種とは故郷の方で別れてから以来《このかた》、一度汽車の窓で顔を合せたぎりである。蔭ながら三吉も姉のことでは心配していたので、こうして逢って見るまでは安心が出来なかった。
三吉と豊世の間には初対面の挨拶《あいさつ》などが交換《とりかわ》された。
「もうすこし早く来ると、森彦さん
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