居も隣室《となり》へ来ておいでる……それで先刻《さっき》ああは言ってみたが、大概私も国の方のことは察しておるわい」
「実叔父さんの応援さえしなかったら、こんなことには成らなかったかも知れない」と正太が言った。「しかし、今と成ってみれば、それも愚痴だ。父親《おとっ》さんも苦しく成って来たから応援した――要するに、是方《こっち》の不覚だ」
「実叔父さんもどうしてあんなことを成すったんでしょう。必《きっ》と誰かに欺《だま》されたんでしょうねえ」こう豊世は言った。
 母は引取って、「ホラ、私が伊東へ来る前に、実のことで裁判所から調べに来たろう――私はあれが気に成って気に成って仕方が無かった。田舎《いなか》のことだもの、お前、尾鰭《おひれ》を付けて言い触らすさ」
「あれでパッタリ融通が止った」と正太は言った。
「大方そんなことだらずと思った」と母も考えて、「銀行の用だ、銀行の用だと仰って、何度父親さんも東京へ出たか知れない……東京で穴埋が出来なかったと見えるテ。それで、何かや、後はどう成ったかや」
「成るようにしか成りません」と正太は力を入れて、「森彦叔父さんにも国の方へ行って頂く積りです」
「嘉助もどうしたかサ」
「こういう時には、年をとった者は何の力にも成らない……殆《ほと》んど意見が立てられない」
 お種が掘って聞こう聞こうとするので、なるべく正太はこういう話を避けようとした。その時、お種は達雄の行衛《ゆくえ》を尋ねた。
「途中で父親さんから実印を送って寄しました。それが最後に来た手紙でした。多分……支那の方へでも行く積りらしい……」こう正太は言い紛《まぎら》して、委《くわ》しいことを母に知らせまいとした。
「一旗《ひとはた》挙げて来る気かいナア」
 と母が力を落したように言ったので、思わず豊世は胸が迫って来た。女同志は一緒に成って泣いた。


 正太は母の側に長く留ることも出来なかった。伊東を発つ日、彼は母だけ居るところで、豊世の身の上に起った出来事を告げた。
 聞けば聞くほど、お種は驚愕《おどろき》の眼を※[#「※」は「目へん+登」、第3水準1−88−91、165−19]《みは》った。夫が彼女のもので無くなったばかりでなく、嫁まで彼女のものでは無くなりかけて来た。
 正太は簡単に話した。父の家出が世間へ伝わると同時に、豊世の生家《さと》からは電報を打って寄した。それには老祖母《おばあ》さんの病気としてある。豊世は直に電報の意味を読んだ。そして、再び夫の許へ帰ることの出来ない様な疑念《うたがい》と恐怖《おそれ》とに打たれた。生家へ出掛けて行ってみた時の豊世は、果して想像の通り引止められて了《しま》った。離別の悲哀《かなしみ》は豊世の眼を開けた――どこまでも豊世は正太の妻であった――そんな訳で、彼女は自分の生家に対しても、当分国の方に居にくい人である――彼女はしばらく東京にでも留って、何か独立することを考えようとして来た人である。こういう話を母に残して置いて、やがて正太は別れを告げて行った。
 一旦くれた嫁を取戻すとは何事だろう。この思想《かんがえ》はお種に非常な侮辱を与えた。その時お種は、橋本の家に伝わる病気を胸に浮べた。何かにつけて、彼女は先ずその事を考えた。「あんな親子には見込が無い――」などと豊世の生家から指を差されるのも、唯、女に弱いからだと考えられた。
「だから、私が言わないこっちゃ無い――」
 とお種は独りで嘆息して了った。彼女は豊世を抱いて泣きたいような心が起って来た。そして皆な一緒にどうか成って了うような気がした……


「橋本さん――貴方はそんな頭髪《あたま》をしていらっしゃるから旦那に捨てられるんです」
 お種が部屋を出て、二階の欄干《てすり》から温泉場の空を眺めていると、こんな串談《じょうだん》を言いながら長い廊下を通る人が有った。隣室の客だ。林夫婦は師走《しわす》の末に近くなって復た東京から入湯に来ていた。
 豊世と一緒に成った頃から、お種は髪を結う気も無く、無造作に巻きつけてばかりいたが、男の口からこんな言葉を聞いた時は酷《ひど》く気に成った。
「捨てられたと思って貰うと、大きに違う……私は旦那に捨てられる覚えは無いで……」
 と腹の中で言ってみた。他《ひと》から見れば最早そんな風に思われるか、とも考えた。彼女は林が戯れて言うとも思えなかった。
 部屋へ戻ると、豊世は入替りに出て行った。姑《しゅうとめ》と嫁とが一緒に成って、国の方の話を始めると、必《きっ》と終《しまい》には両方で泣いて了う。二人は互に顔を合せているのも苦《くるし》かった。町へ――漁村へ――近くにある古跡へ――さもなければ隣室に居る家族、その他この温泉宿で懇意に成った浴客の許《ところ》へ遊びに行くことを勉《つと》めて、二人ぎり一緒に居ることはなるべく両方で避けよう避けようとした。
 お種は独り横に成った。故郷の家が胸に浮んだ。机がある、洋燈《ランプ》が置いてある、夫はしきりと手紙を書いている……それは前の年のある冬の夜のことで、どうも夫の様子が変に思われたから、一時頃までお種は寝た振をしていたことがあった。やがて夫が手紙を書き終った頃に、むっくと起きて、是非それを読ませよと迫った。未だそんなものを書く気でいるとは、読ませなければ豊世を呼ぶとまで言った。その時、夫がこの手紙だけは許してくれ、そのかわり女のことは思い切る、とお種に誓うように言った……その後、女は東京へ出たとやらで、どうかすると手紙の入った小包が届いた。夫は送金を続けていた……
 お種の考えることは、この年の若い、親とも言いたいような自分の夫に媚《こ》びる歌妓《うたひめ》のことに落ちて行った。同時に、国府津の海岸で別れたぎり、年の暮に成るまで待っても夫から一回の便りも無いことを思ってみた。
 到頭、お種は豊世と二人で、伊東に年をとった。温泉宿の二階で、林の家族と一緒に、※[#「※」は「魚へん+單」、第3水準1−94−52、168−4]《ごまめ》、数の子、乾栗《かちぐり》、それから膳《ぜん》に上る数々のもので、屠蘇《とそ》を祝った。年越の晩には、女髪結が遅く部屋々々を廻った。お種もめずらしく、豊世の後で髪を結わせた。姑の髷《まげ》がいつになく大きいので、それを見た豊世は奇異な思に打たれた。
 お種はその晩碌に眠らなかった。夜の明けないうちに起きて、サッパリと身じまいした。
「まあ、母親《おっか》さんは白粉《おしろい》などをおつけなさるんですか」と豊世も臥床《とこ》を離れて来て言った。
「私だって、つけなくってサ」とお種は興奮したように笑った。「若い時はいくらでもつけた」
「若い時はそうでしょうけれど、私が来てから母親さんがそんなに成さるところを見たことが無い」
「さあ、さあ、豊世もちゃっと化粧《おつくり》しよや。二人で揃《そろ》って、林さんへ御年始に行こまいかや」


 温泉場の徒然《つれづれ》に、誰が発起するともなく新年宴会を催すことに成った。浴客は思い思いの趣向を凝らした。豊世が湯から上って来て見ると、姑は何処《どこ》からか袴《はかま》を借りて来て、裾《すそ》の方を糸で括《くく》っているところであった。
「豊世や、今日は林の御隠居さんと一緒に面白い趣向をして見せるぞい。ちゃんともう御隠居さんには打合せをして置いたからネ」
 こうお種が言うので、豊世は不思議そうに、
「母親さんはまた何を成さるんですか――」
「まあ、何でも好いから、お前の羽織を出して貸しとくれ」
 豊世の羽織には裏に日の出に鶴をあらわしたのが有った。お種はそれを借りて、裏返しにして着て見せた。
「真実《ほんと》に、何を成さるんですか」と豊世が心配顔に言った。「母親さん、下手な事は止《よ》して下さいよ」
「お前のように、楽屋でそんなことを言うもんじゃないぞい――見よや、日の出に鶴だ。丁度|御誂《おあつらえ》だ。これで袴を穿《は》いて御覧、立派な万歳《まんざい》が出来るに」
 豊世は笑って可いか、泣いて可いか、解らないような気がした。
「旅の恥は掻捨《かきすて》サ」とお種が言った。「気晴しに、私も子供に成って遊ぶわい……それはそうと、豊世は御隠居さんの許《ところ》へ行って、御仕度はいかがですかッて見て来ておくれや」
 姑の言付で、豊世は部屋を出た。平素《ふだん》から厳格な姑のような人に、そんなトボケた真似《まね》が出来るであろうか、こう思うと、豊世はハラハラした。
 二階の広間には種々《いろいろ》な浴客が集って来た。その日はこの温泉宿に逗留《とうりゅう》しているものばかりでなく、他《よそ》からも退屈顔な男女が呼ばれて来て、一切無礼講で遊ぶことに成った。板前から女中まで仲間入を許された。
 賑《にぎや》かな笑声が起った。隠し芸が始まったのである。若い娘や女中達は楽しそうに私語《ささや》き合ったり、互に身体を持たせ掛けたりして眺めた。こういう時に見せなければ見せる時は無いと思うかして、芸自慢の人達は我勝にと飛出した。中には、喝采《かっさい》に夢中に成って、逆上《のぼせ》たような人も有った。
 この光景《ありさま》を見て来て、廊下伝いに豊世は部屋の方へ戻ろうとした。林の細君に逢った。
 豊世は気が気で無いという風に、「奥さん――母親さん達は大丈夫なんでしょうかねえ。何だか私は心配で仕様が有りません」
「私共の祖母さんが太夫さんなんですトサ」と林の細君は肥満した身体を動《ゆす》りながら笑った。
「母親さんもネ、家の方のことを心配なさり過ぎて、それであんなに気が昂《た》ったんじゃないかと思いますよ――母親さんには無い事ですもの……」
「でも、橋本さんはキサクな、面白い方ですから……私共の祖母さんを御覧なさいな」
 折れ曲った長い廊下の向には、林の家族の借りている二間ばかりの部屋が見える。障子の開いたところから、動く烏帽子《えぼし》、頭巾《ずきん》が見える。


 仮装した女の万歳の一組がそこへ出来上った。お種は林の隠居の手を引きながら、嫁達の立っている前を通過ぎた。
 その時、お種は心の中で、
「面白|可笑《おか》しくして遊ばせるような婦女《おんな》でなければ、旦那衆の気には入らないのかしらん……ナニ、笑わせようと思えば私だって笑わせられる」
 こう自分で自分に言ってみた。彼女は余程トボケた積りでいた。嫁が心配していようなどとは思いも寄らなかった。
 盛んな喝采が起った。浴客はいずれもこの初春らしい趣向と、年をとった人達の戯《たわむれ》とを狂喜して迎えた。豊世は気まりが悪いような、困って了ったような顔付をして、何を姑が為《す》るかと心配しながら立っていた。林の細君も笑いながら眺めた。
 林の隠居は、こんな事をしたことの無い、温柔《おとな》しい老婦《としより》で、多勢の前へ出ると最早下を向いて了った。その側には、お種が折角の興をさまさせまいとして、何か独りで万歳の祝いそうなことを真似《まね》て言った。
「ホイ――ポン――ポン――」
 お種は鼓を打つ手真似をしながら、モジモジして震えている太夫の周囲《まわり》を廻って歩いた。
 豊世は立って眺めながら、
「まあ、母親さんは……どうしてあんなことを覚えていらしったんでしょう……何時《いつ》、何処《どこ》で覚えたんでしょう」
「祖母さん――」と林の細君は隠居のことを言った。
「あんなに、喋舌《しゃべ》って、喋舌って、喋舌りからかいて――」と豊世は思わず国訛《くになま》りを出した。
「奥さん、吾家《うち》の母親さんをああして出して置いても可いでしょうか。私はもう困って了いますわ」
「そうネ。橋本さんは少しハシャギ過ぎますネ」
 こんな話をしているうちに、お種の方では目出度く祝い納めて、やがて隠居と一緒に成って笑った。隠居は烏帽子を擁《かか》えたまま自分の部屋の方へ逃げて行った。お種もその後を追った。
 部屋へ戻ってからも、お種は自分で制《おさ》えることの出来ないほど興奮していた。豊世は姑の背後《うしろ》へ廻って、何よりも先ず羽織や袴を脱がせた。
「母親さん、母親さん、
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