「橋本の伯母《おば》さんだよ」
と三吉はお房を窓のところへ抱上げて見せた。
「房《ふう》ちゃんですか」と言って、お種は窓から顔を出して、「房ちゃん……お土産《みや》が有りますよ……」
「ヨウ、日に焼けて、壮健《じょうぶ》そうな児だわい」と達雄も快濶《かいかつ》らしく笑った。
お種は窓越しに一寸《ちょっと》でもお房を抱いてみたいという風であったが、そんなことをしている時は無かった。彼女はいそがしそうに、子供へと思って用意して来た品々の土産物を取出して、弟夫婦へ渡した。
「ずっと東京の方へ御出掛ですか」と三吉が聞いた。
「いや、東京は後廻しです」と達雄は窓につかまって、「私だけ東京に用が有りますから、先《ま》ず家内を送り届けて置いて……今度の様に急ぎませんとね、お種もいろいろ御話したいんでしょうけれど――」
「お雪さん、ゆっくり御話も出来ないような訳ですが、今度は失礼しますよ――いずれ復《ま》たお目に掛りますよ」とお種も言った。
お雪は二番目のお菊を抱きながら会釈する、お種は車の上からアヤして見せる、碌《ろく》に言葉を交《かわ》す暇もなく、汽車は動き出した。
お種が窓から首を出して、もう一度弟の家族を見ようとした頃は、汽車は停車場を離れて了《しま》った。田舎《いなか》の子供らしく育ったお房の紅い頬《ほお》、お菊を抱いて立っているお雪の笑顔、三吉の振る帽子――そういうものは直にお種の眼から消えた。
「漸《やっ》とこれで私も思が届いた」とお種も言ってみて、やがて窓のところに倚凭《よりかか》った。
しばらく達雄夫婦の話は三吉等の噂《うわさ》で持切った。旅と思えば、お種も気を張って、平常《いつも》より興奮した精神《こころ》の状態《ありさま》にあった。なるべく彼女は弱った容子《ようす》を夫に見せまいとしていた。その日は達雄も酷《ひど》く元気が無かった。しかし、夫はまた夫で、それを外部《そと》へは表すまいと勉めていた。
汽車が山を下りた頃、隣の室の客で、窓から乳を絞って捨てる女が有った。お種はそれを見て子の無い自分の嫁のことを思出した。彼女は忰《せがれ》や、嫁や、それから不幸な娘などから最早《もう》余程離れたような気がした。
この旅はお種に不安な念《おもい》を抱《いだ》かせた。何ということはなしに、彼女は心細くて心細くて成らなかった。彼女の衰えた身体《からだ》は、正太の祝言を済ました頃から、臥床《とこ》の上に横《よこた》わり勝で、とかく頭脳《あたま》の具合が悪かったり、手足が痛んだりした。で、弟の森彦の勧めに従って、この前にも伊豆の温泉を択《えら》んで、遠く病を養いに出掛けたこともあった。伊東行は丁度これで二度目だ。どういうものか、今度は家を離れたくなかった。厭《いや》だ、厭だ、とお種がいうやつを、無理やりに夫に勧められて出て来た位である。
赤羽で乗替えて、復た東海道線の列車に移った頃は、日暮に近かった。達雄はすこし横に成った。お種はセル地の膝掛《ひざかけ》を夫に掛けてやって、その側で動揺する車の響を聞いた。寝ても寝られないという風に、達雄は間もなく身を起したが、紳士らしい威厳のあるその顔には何処《どこ》となく苦痛の色を帯びていた。彼は、眼に見ることの出来ないある物に追われているような眼付をした。
「どうか成さいましたか」とお種は心配顔に尋ねてみた。「都合が出来ましたら、貴方《あなた》もすこし伊東で保養していらしったら……」
「どうして、お前、そんなユックリしたことが言っていられるもんじゃない」と達雄が言った。「東京で用達をして、その模様に依《よ》っては直に復た国の方へ引返さなけりゃ成らん……俺《おれ》は今、一日を争う身だ……」
達雄は祖先から伝わった業務にばかり携わっていることの出来ない人であった。彼は今、郷里の銀行で、重要な役目を勤めている。決算報告の期日も既に近づいている。
車中の退屈|凌《しの》ぎに、お種は窓から買取った菓物《くだもの》を夫に勧めた。達雄はナイフを取出して、自分でその皮を剥《む》こうとした。妙に彼の手は震えた。指からすこし血が流れた。
「俺も余程どうかしてるわい」
こう言って、達雄は笑に紛らした。お種は不思議そうに夫の顔を眺めたが、ふとその時心の内で、
「まあ、旦那《だんな》が手を切るなんて……今までに無い事だ」
と不審《いぶか》しく思って見た。
乗りつづけに乗って行った達雄夫婦は、その晩遅く、疲れて、国府津《こうず》の宿まで着いた。
波の音が耳について、山から行った人達は一晩中|碌《ろく》に眠られなかった。海の見える国府津の旅舎《やどや》で、達雄夫婦は一緒に朝飯を食った。
お種は多忙《いそが》しい夫の身の上を案じて、こんな風に言出した。
「貴方――もし御多忙しいようでしたらここから帰って用を達して下さい。最早《もう》船に乗るだけの話で、海さえ平穏《おだやか》なら伊東へ着くのは造作ない――私|独《ひと》りで行きます」
「そうか……そうして貰えると、俺も大きに難有《ありがた》い……しかし、お前独りで大丈夫かナ」と達雄が言った。
「大丈夫にも何にも。ここまで貴方に送って頂けば沢山です。初めての旅ではないし、それに伊東へ行けば多分林さん御夫婦や御隠居さんが来ていらっしゃるで、何にも心配なことは有りません」
「じゃあ、ここでお前に別れるとしよう……こうっと、俺はこれから直に東京へ引返して、銀行の方の用達をしてト……大多忙《おおいそがし》」
こういう話しをしているところへ、宿の下婢《おんな》が船の時間を知らせに来た。東京の方へ出る汽車が有ると見えて、宿を発《た》って行く旅人も有った。
「汽車が出るそうな」とお種は聞耳を立てた。「丁度好い――この汽車に乗らっせるが可い」
「伊東まで行く思をして御覧な」と達雄は言った。「なにも、そんなに周章《あわ》てなくても好い。汽車はいくらも出る」
「でも、貴方は、一日を争う身だなんて仰《おっしゃ》っていらしったで……それほど大切な時なら、一汽車でも早く東京へ入った方が好からずと思って」
「まあ、船までお前を送ってやるわい」
多忙《いそが》しがっている人に似合わず、達雄はガッカリしたように坐って、復《ま》た煙草を燻《ふか》し始めた。何となく彼は平素《ふだん》のように沈着《おちつ》いていなかった。
停車場の方では、汽車の笛が鳴った。達雄は一向それに頓着《とんちゃく》なしで、思い屈したように、深く青い海の方を眺めていた。
そのうちに、伊東行の汽船の出る時が来た。夫婦は宿を出て、古い松並木の蔭から海岸の方へ下りた。細い砂を踏んで、礫《こいし》のあるところまで行くと、そこには浪《なみ》が打寄せている。旅人の群も集って来ている。艀《はしけ》に乗る男女の客は、いずれも船頭の背中を借りて、泡立ち砕ける波の中を越さねば成らぬ。お種は夫に別れて、あるたくましげな男に背負《おぶ》さった。男はジャブジャブ白い泡の中を分けて行った。
艀が浮いたり沈んだりして本船の方へ近づくに随《したが》って、悄然《しょんぼり》見送りながら立っている達雄の顔も次第にお種には解らなく成った。勝手を知った舟旅で、加《おまけ》に天気は好し、こうして独りで海を渡るということは、別にお種は何とも思わなかった。唯、彼女は夫のことが気に懸って成らなかった。汽船に移ってから、彼女は余計に心細く思って来た。夫は最早傍に居なかった。
伊豆行の汽船は相模灘《さがみなだ》を越して、明るい海岸へ着いた。旅客は争って艀に移った。お種も、湯《ゆ》の香《か》のする温泉地へ上った。
伊東の宿には、そこでお種の懇意に成った林夫婦、隠居、書生などがその夏も来ていた。この家族は東京から毎年のように出掛けて来る浴客である。長い廊下に添うて、庭に面した二階の部屋がこの人達の陣取っていた処で、お種はその隣の一室へ案内された。不取敢《とりあえず》、彼女は嫁の豊世へ宛《あ》てて書いた。
その日からお種は温泉宿の膳《ぜん》に対って、故郷の方を思う人であった。不思議にも、達雄からは文通が無かった。一週間待っても、二週間待っても、夫は一回の便りもしなかった。
一月待った。まだそれでも夫からは便りが無かった。正太や豊世の許《ところ》から来る手紙には、父のことに就《つ》いて一言も書いてなくて、家の方は案じるなとか、くれぐれも身《からだ》を大切にして病を養ってくれよとか――唯、母に心配させまい心配させまいとするような風に書いてある。何となくお種は家に異状の起ったことを感じた。こうして遠く離れた土地へ――海岸へ出れば向に大島の見えるような――そんな処へ独り彼女が置《おか》れるというは、何事も夫が見せまいとする為であろうと想像された。お種は、夫に勧められて無理に連出されて来た旅の心細かったことや、それから途中で夫の手が震えてついぞ切った例《ためし》のない指なぞを切ったことを絶えず胸に浮べた。そんなことを思う度に、身体がゾーとして来た。
二月待った。隣室の林夫婦は、隠居と書生だけ置いて、東京の方へ行く頃と成った。その人達を船まで見送るにつけても、お種は堪え難い思をした。
東京に居る森彦からの手紙は、すこしばかり故郷の事情を報じて来た。それを読んで、始めてお種は夫の家出を知った。森彦の考えにも、ここで姉が帰郷してみたところで、家の方がどうなるものでも無い。それよりは皆なの意見を容《い》れて今しばらく伊東に滞在しておれ、とある。不思議だ、不思議だと、お種が思い続けたことは、漸《ようや》く端緒《いとぐち》だけ呑込《のみこ》めることが出来るように成った。しかし、彼女の気質を知る者は、誰一人として家の模様をあからさまに告げて寄《よこ》すものが無かった。
何にも達雄からは音沙汰《おとさた》が無い……苦しいことが有れば有るように、せめて妻の許《ところ》だけへは家出をした先からでも便りが有りそうなもの、とこうお種は夫の心を頼んでいた。また一月待った。
橋本の若夫婦――正太、豊世の二人は、母のことを心配して、便船に乗って来た。
この人達を宿の二階に迎えた時のお種の心地《こころもち》は、丁度吾子を乗せた救い舟にでも遭遇《であ》ったようで、破船同様の母には何から尋《たず》ねて可いか解らなかった。
忰《せがれ》や嫁の顔を見ると、お種も力を得た。彼女はすこし元気づいたような調子で、自分の落胆していることを若いものに見せまいとする風であった。
「お前達は子が無いで――こういう温泉地へ子でも造りに来たかい」
と言われて、正太と豊世とは暫時《しばらく》顔を見合せた。
「母親《おっか》さん、そこどころじゃ有りませんよ……」
と豊世が愁《うれ》わしげに言出した。
正太はこの話を遮《さえぎ》って、妻にも入浴させ、自分でも旅の疲労を忘れようとした。
浴室は折れ曲った階段を降りて行ったところにあった。伊豆らしい空の見える廊下のところで若夫婦はちょっと佇立《たたず》んだ。
「お前達は子でも造りに来たかいなんて――母親さんはあんな気で被入《いらっ》しゃるんでしょうか」と豊世が言ってみた。「真実《ほんと》に何からお話したら可いでしょうねえ……」
「なにしろ、お前、ああいう気性の母親さんだから、一時《いちどき》に下手《へた》なことは話せない」と正太も言った。「お前が側に附いていて追々と話して進《あ》げるんだネ」
こんな言葉を取換《とりかわ》した後、正太は二三の男の浴客に混って、湯船の中に身を浸した。彼は妻だけこの伊東に残して置いて復た国の方へ引返さなければ成らない人で有った。前途は彼に取って唯|暗澹《あんたん》としている。父が投出して置いて行った家の後仕末もせねば成らぬ。多くの負債も引受けねば成らぬ。「家なぞはどうでも可い」とよく往時《むかし》思い思いした正太ではあるが、いざ旧《ふる》い家が壊《こわ》れかけて来たと成ると、自分から進んでその波の中へ捲込《まきこ》まれて行った。
湯から上って、正太は母や妻と一緒に成った。
母は声を低くして、「林の御隠
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