ませんでした」
 と曾根が言って、避暑地の霧に悩まされていることなどを話出した。彼女は、何かこうシッカリと捉《つか》まる物でも無《なけ》れば、自分の弱い体躯《からだ》まで今に何処へか持って行かれて了うような眼付をした。
「日記といえば」と曾根は又思出したように、「私も日記をつけてみましたけれど……不平なようなことばかりで、面白くないものですから、大晦日《おおみそか》の晩に焼いて了いました。そして、元日に遺言状を書きました。ああ狂《きちがい》……私のようなものが世の中に居るのは間違なんで御座いましょう……」
 深く沍々《さえざえ》とした彼女の黒瞳《くろめ》は自然と出て来る涙の為に輝いた。
 その日、曾根は興奮した精神《こころ》の状態《ありさま》にあった。どうかすると、悲哀《かなしみ》の底から浮び上ったように笑って、男というものを嘲るような語気で話した。
 お雪はこの仲間入に呼出されても、直に勝手の方へ行って、妹を相手に洗濯物を取込むやら、霧を吹いて畳むやらしていた。曾根が礼を述べて、別れて帰る時、お雪は炉辺で挨拶《あいさつ》した。
「まあ、宜しいじゃ御座いませんか……もっと御緩《ごゆっくり》なすったら奈何《いかが》で御座います……」
 と客を引留めるように言ったが、曾根は汽車の時間が来たからと断《ことわ》って、出た。三吉はお雪に言付けて、停車場まで見送らせることにした。
 お雪が子供を背負《おぶ》いながら引返して来てみると、机の下に、「お雪さまへ、千代」とした土産が置いてあった。千代とは曾根の名だ。
「曾根さんは黙ってこういうことをして行く人だ」と三吉が笑った。
 お雪はその紙に包んだ女持の※[#「※」は「巾へん+白」、第4水準2−8−83、113−4]子《ハンケチ》を眺めながら、「汽車が後《おく》れて、大分停車場で待ちましたよ――三十分の余も」
「何か話が出たかネ」と三吉は聞いてみた。
「曾根さんが私のことを、『大変貴方は顔色が悪い』なんて……」


 何となく家の内はガランとして来た。三吉夫婦は互に顔も見合せずに、黙って食卓に対《むか》うことすら有った。
 むずかしい顔付をして考え込んでばかりいるような夫の様子は、お雪の小さな胸を苦しめた。この機嫌《きげん》の取りにくい夫の言うことは、又、彼女に合点の行かないことが多かった。夫はお房が可愛くて成らないという風で、「この児の頬《ほっぺた》は俺の母親《おっか》さんに彷彿《そっくり》だ」などと言っているかと思えば、突然《だしぬけ》にお雪に向ってこんなことを言出す。
「房ちゃんは真実《ほんと》に俺の児かねえ」
「馬鹿な……自分の児でなくて、そんなら誰の児です」
 こういう馬鹿らしい問答ほど、お雪の気を傷《いた》めることは無かった。
「一体、お前はどういう積りで俺の家へ嫁《かたづ》いて来た……」
「どういう積りなんて、そんな無理なことを……」
「いっそ俺は旅にでも出て了おうかしらん――どうかすると、そういう気が起って来て仕方ない」
「まあ、どうしてそんな気に成るんでしょうねえ」
 お雪はもう呆《あき》れて了う。「他所《よそ》から帰って来ると、自分の家ほど好い処は無いなんて、よく言うじゃ有りませんか――真実《ほんと》に、貴方は気が変り易《やす》いんですねえ」こうも並べてみる。お雪には、夫が戯れて言うとはどうしても思われなかった。それは、唯考えてみたばかりでも、彼女の心をムシャクシャさせた。
 熱い日が射《あた》って来た。三吉の家では、前の年と同じように、鴨居《かもい》から鴨居へ細引を渡した。お雪が生家《さと》から持って来たもので、この田舎では着る時の無いような着物が虫干する為に掛けられた。結婚の時に用いた夫の羽織袴《はおりはかま》、それから彼女の身に纏《まと》うた長襦袢《ながじゅばん》の類まで、吹通る風の為に静かに動いた。小泉の兄の方から送った結納《ゆいのう》の印の帯なぞは、未だ一度も締たことが無くて、そっくり新しいまま眼前《めのまえ》に垂下った。
「ああ、ああ、着物も何も要《い》らなくなっちゃった」
 と言って、お雪は深い溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
 子供は名倉の母から貰ったネルの単衣《ひとえ》を着せて、そこに寐《ね》かしてあった。
「それ、うまうま」
 とお雪は煩《うる》さそうに横に成って、添乳《そえぢ》をしながら復た自分の着物を眺めた。
 午睡《ひるね》から覚《さ》めた時の彼女は顔の半面と腰骨のあたりを射し入る光線に照らされていた。彼女はすこし逆上《のぼ》せたような眼付をして身を起した。額も光った。こういう癇癪《かんしゃく》の起きた時は、平常《ふだん》より余計に立働くのがお雪の癖で、虫干した物を片付けるやら、黙って拭掃除《ふきそうじ》をするやらした。彼女は夫や客の為に食事の用意をして置いて、一緒に食おうともしなかった。裏の流の水草に寄る螢《ほたる》は、桑畠の間を通って、南向の部屋に近い垣根の外まで迷って来た。お雪は濡縁《ぬれえん》のところに立って、何の目的《めあて》もなく空を眺めた。隣のおばさんは鎌《かま》を腰に差して畠《はたけ》の方から帰って来る。桑を背負った男もその後から会釈して通る……


「一筆《ひとふで》しめし上げ※[#「※」は「まいらせそろ」の略記号、115−9]《まいらせそろ》。さてとや暑さきびしく候《そうろう》ところ、皆様には奈何《いかが》御暮しなされ候や。私よりも一向音信いたさず候えども、御許《おんもと》よりも御便り無之《これなく》候故、日々御案じ申上げ候。御蔭さまにて当方は一同無事に日を送り居り候。御安心|被下《くだされ》たく候。私こと、毎日々々そこここと手伝見舞にまいり、いそがしく、それに仕事の方も間に合せたくと存じ、それ着物の浸抜《しみぬき》、それ洗張《あらいはり》と、騒ぎにばかり日を暮し、未だ父上の道中着物ほどきもせずに居るような仕末に御座候。
 ――私よりの御無沙汰《ごぶさた》、右の次第にて、まことに申訳なく候えども、あまり御許《おんもと》よりも手紙なきゆえ、定めし子供を控え手もすくなく其日々々のことに追われ、暇《いとま》なき身《からだ》とは御察し申しながら、父上|着《ちゃく》なされ候てより未だ一通の手紙もまいらず、御許のことのみ気に懸り、心許なくぞんじ居り候。奈何《いかが》いたし候や。あるいは御許の心変りしやとも考え、斯《か》くては定めし夫に対しても礼義崩れ、我儘《わがまま》なることもなきやと、日々心痛いたし居り候。御許ばかりは左様の事なきかとは思い居り候えども、人間の我儘はいずれにもあることなれば、実に安心の成らぬものに御座候。それにしても、御許にかぎりて、左様なことは有るまじくと存じ居り候。何につけ善悪《よしあし》とも御便り下されたく候。
 ――お福も最早《もはや》学校も間近に相成り候。長々の間、定めて御心を懸け下され候ことと、ありがたく、父上ともども喜び居り候。
 ――就《つ》いては、先日より何か送りたくと存じながら、彼《あれ》や是《これ》やにひかされて今日まで延引いたし、誠に不本意に御座候。只今小包便にて、乾塩引《かんしおびき》少々、鰹節《かつおぶし》五本、豆せんべい、松風いずれも少々、前掛一枚、右の品々めずらしくも無い物に御座候えども、御送り申上候。乾塩引は素人《しろうと》の俄《にわ》か干しに候間、何分身は砕け、うまみも無く候。されど今は斯《こ》の品ばかりの時節に候。尤《もっと》も、斯の品にて小なる物一本四十五銭に御座候。送り物に直段書《ねだんがき》などは可笑《おか》しく候。
 ――御話もいろいろ有之候えども、今日は之にて御免を願い上げ候。福子へも宜敷《よろしく》御伝え下されたく候。先《まず》は、あらあら。
                                    母 よ り
  雪子どの
 末筆ながら旦那様へ宜敷御申訳くだされたく、御頼申上げ※[#「※」は「まいらせそろ」の略記号、読みは「まいらせそろ」、116−14]。又、御近所へは何も進《あ》げる物なきゆえ、何卒々々よろしく御伝え下されたく候」
 お雪はしばらく生家《さと》へも書かなかった。この母からの便りは彼女に種々《いろいろ》なことを思わせた。お雪は、母の手紙を顔に押当てて、泣いた。


「どうしてそう家が面白くないんでしょうねえ」
 こうお雪は夫の傍へ子供を抱いて来て、嘆息するように言った。奥の庭の土塀《どべい》に近く、大きな李《すもも》の樹があった。沢山|密集《かたま》って生《な》った枝からは、紫色に熟した実がポタポタ落ちた。三吉は沈思を破られたという風で、子供の方を見て、
「なにも、俺は面白い家庭なぞを造ろうと思って掛ったんじゃない――初から、艱難《かんなん》な生活を送る積りだ」
「でもこの節は毎日々々考えてばかりいらっしゃるじゃ有りませんか」とお雪は恨めしそうに、「ああ、家を持ってこんな風に成ろうとは思わなかった」
「じゃ、こうだろう、お前のは平素《しょっちゅう》芝居でも見られるような家へ行きたかったんだろう」
「そう解《と》っちゃ困りますよ。芝居なんか見たか有りませんよ。直に貴方《あなた》はそれだもの。なんでも私の為《す》ることは気に入らない。第一、貴方は何事《なんに》も私に話して聞かせて下さらないんですもの」
「こうして話してるじゃないか」と三吉は苦笑《にがわらい》した。
「話してるなんて……」と言って、お雪は子供の顔を眺めて、「ああ、もっと悧好《りこう》な女に生れて来れば好かった。私も……私も……この次に生れ変って来たら……」
「生れ変って来たら、どうする」
 お雪は答えなかった。
「あんまり貴方も考え過ぎるんでしょう」
 とお雪は冷かに微笑《ほほえ》んで、「ちと曾根さんの方へでも遊びに行ってらしたらどうです」
「余計な御世話だ」と三吉は力を入れて言った。「お前は直に、曾根さん、曾根さんだ。それがどうした。お前のような狭い量見で社会《よのなか》の人と交際が出来るものか」こう彼は言おうとしたが、それを口には出さなかった。
「だって、こうして引籠《ひっこ》んでばかりいらっしゃらないで、御出掛に成ったら可いでしょうに……」
「行こうと、行くまいと、俺の勝手じゃないか」
 土塀の外の方では、近所の子供が集って李を落す音がした。
「房ちゃん」とお雪は子供を抱〆《だきしめ》るようにして、「父さんに嫌《きら》われたから、彼方《あっち》へ行きましょう」
 力なげにお雪は夫の傍を離れた。三吉は、「妙なことを言うナア」と口の中で言ってみて、復た考え沈んだ。
 暮れてから、三吉と直樹とは奥の部屋に洋燈《ランプ》を囲んで、一緒に読んだり話したりした。
 急にお雪は嘔気《はきけ》を覚えた。縁側の方へ行って吐いた。
「姉さん、どうなすったんですか」
 と直樹はお雪の側へ寄って、背中を撫《な》でてやる。
「ナニ、何でもないんです」とお雪は暫時《しばらく》動かずにいた後で言った。「難有《ありがと》う――直樹さん、もう沢山です」
 この嘔吐の音は直樹を驚かした。三吉は何か思い当ることが有るかして、すこし眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。流許《ながしもと》の方から塩水を造って持って来て、それを妻に宛行《あてが》った。
 その晩は、お雪はお福と一緒に蚊帳《かや》を釣って、平常《いつも》より早くその内へ入った。蚊が居て煩《うるさ》いと言いながら、一度横に成った姉妹《きょうだい》は蝋燭《ろうそく》を点《とも》して、蚊帳の内を尋ね廻った。緑色に光る麻蚊帳を外から眺めながら、三吉と直樹の二人は遅くまで読んだ。
 お雪は何時までも団扇《うちわ》の音をさせていたが、夫や直樹の休む頃に復た起きて、蚊帳の外で涼んだ。三吉も寝る仕度をして、子供の枕許《まくらもと》を覗《のぞ》くと、お雪が見えない。
「何しているんだろうナア」
 こう独語《ひとりごと》のように言って、三吉は探してみた。表の入口の戸が明いていた。隣近所でも最早《もう》寝たらしい。向の料理屋の二階だけは未だ賑《にぎや》かで、三味線の
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