こうして一緒に成ったということは、三吉を喜ばせたばかりでは無かった。「姉さん、姉さん」と呼ばれるお雪も心から喜んで、この青年を迎えた。退屈でいるお福も好い話相手を得た。遽《にわ》かに三吉の家では賑《にぎや》かに成った。
翌日から、直樹は殆《ほと》んど家の人であった。子供を可愛がることも、この青年の天性に近かった。お福は、娘でありながら、直樹のようには子供を好かなかった。
「房《ふう》ちゃん、房ちゃん」と言って、子供を背中に乗せて、家の内を歩く直樹の様子を眺《なが》めると、三吉は昔時《むかし》自分が直樹の家に書生した時代のことを思出さずにいられなかった。
「僕も、ああして、よく直樹さんを背負って歩いたものだ」
と三吉は妻に話した。直樹は生れ落ちるから、三吉の手に抱かれた人である。
「曾根さんが先刻《さっき》訪ねていらっしゃいましたよ」とお雪は入口の庭のところで張物をしながら言った。
屋外《そと》から入って来た三吉は、妻の顔を眺めた。何時《いつ》山の上へ着いたとも、何処《どこ》へ宿を取ったとも、判然《はっきり》知らせて寄《よこ》さないような曾根が、こうして自分等の家へ訪ねて来たということは、酷《ひど》く三吉を驚かした。
「あの」とお雪は張物する手を留めて、「そこいらまで見物に被入《いら》しった序《ついで》に御寄んなすったんですッて」
「お前も又、待たして置けば好いのに――折角来たものを」
「だって御上りなさらないんですもの。お連《つれ》の方がお有んなさるからッて」
「へえ、誰か一緒に来たのかい」
「女の方が二人ばかり、流の処に蹲踞《しゃが》んでいらっしゃいました」
「姉さん」とお福は上《あが》り框《がまち》のところに腰掛けながら、「あの連の方は必《きっ》と耶蘇《ヤソ》ですよ」
「どうして耶蘇ということが分るの」とお雪は妹の方を見た。
「衣服《きもの》の風や束髪で分りますわ」とお福が言った。
「復た寄るとは言わなかったかい」と三吉は妻に尋ねた。
「ええ、被入《いら》っしゃりたいような様子でしたよ」とお雪は妙に力を入れて、「なんでも、停車場前の茶屋に寄っていらっしゃるんですッて」
「行って見て来るかナ」
こう三吉は言捨てて、停車場の方を指して急いだ。
茶屋には、曾根が二人の連と一緒に休んでいた。連の一人は曾根の身内にあたる婦人で、艶《つや》の無い束髪や窶々《やつやつ》しいほど質素な服装などが早く夫に別れたらしい不幸な生涯を語っていた。今一人は肥え太った、口数のすくない女学生であった。いずれもすこし歩き疲れたという風で、時刻過ぎてからお腹《なか》をこしらえようとしていた。三吉は休茶屋にあるものを取寄せて、この人達をもてなした。
「何卒《どうぞ》おかまい下さいますな。私共は持って参りました……」
と言って、年長《としうえ》の婦人は寂しそうに笑った。山歩きでもするように、宿から用意して来た握飯《むすび》がそこへ取出された。肥った女学生は黙って食った。
やがて、三吉はこの人達を城跡の方へ案内した。桑畠の間を通って、鉄道の踏切を越すと、そこに大きな額の掛った門がある。四人は熱い日の映《あた》った赤土の崖《がけ》に添うて、坂道を上った。高い松だの、アカシヤだのの蔭を落している石垣の側へ出た。
どうかすると、連の二人はズンズン先へ歩いて行って了《しま》った。曾根は深張の洋傘《こうもり》に日を避《よ》けながら、三吉と一緒に連の後を追った。
大きな石を積み上げた古い城跡には、可憐な薔薇《ばら》の花などが咲乱れていた。荒廃した石段を上って、天主台のところへ出ると、長い傾斜の眺望が四人の眼前《めのまえ》に展《ひら》けた。
三吉はその傾斜の裾《すそ》の方を指して見せて、林に続く村落の向にはある風景画家の住居もあることなどを語り聞かせた。曾根は眼を細くして、
「私もこうして人の知らない処へでも来ていたらばと思います」
と眺め入りながら沈み萎《しお》れた。
松林の間を通して、深い谷の一部も下瞰《みおろ》される。そこから、谷底を流れる千曲川《ちくまがわ》も見える。
夕立を帯びた雲の群は山の方角を指して松林の上を急いだ。遽然《にわかに》ザアと降って来た。三吉は天主台近くにある茶屋の二階へ客を案内した。広い座敷へ上って、そこで茶だの菓物《くだもの》だのを取り寄せながら、一緒に降って来る雨を眺めた。廊下の欄《てすり》から手の届くほど近いところには、合歓木《ねむ》や藤が暗く掩《おお》い冠《かぶ》さっていた。雫《しずく》は葉を伝って流れた。
冷々《ひやひや》とした空気は三吉が心の内部《なか》までも侵入《はい》って来た。どうかすると彼は、家の方を思出したような眼付をしながら、夏梨をむく曾根の手を眺めていた、曾根が連の寡婦《やもめ》は宗教の伝道に従事していることなどを三吉に語った。こういう薄命な、とはいえ独りで立って行こうとするほど意志の堅い婦人は、まだ外にも、曾根の周囲《まわり》にあった。曾根は女の力で支《ささ》えられたような家族の中に居て、又、女の力で支えられたような芸術に携《たずさわ》っていた。時とすると、彼女の言うことは、岩の間を曲り折《くね》って出て来る水のように冷たかった。
間もなく夏の雨は通り過ぎた。三吉は客と一緒にこの眺望の好い二階を下りた。四人は高い石垣について、元来た城跡の道を歩いて行った。
雨がかかると鶯《うぐいす》の象《かたち》が顕《あらわ》れるように言い伝えられた大きな石の傍へ来掛る頃は、復た連の二人がサッサと歩き出した。二人の後姿は突出た石垣の蔭に成った。
曾根は草木の勢に堪《た》え難いような眼付をして、
「山の上へ参りましたら病気も癒《なお》るだろう、海よりは山の方が好い――なんて懇意な医者に言われるもんですから、人様も憐《あわれ》んで連れて来て下すったんですけれど……やっぱり駄目です……」
独身でいる曾根の懊悩《なやみ》は、何とも名のつけようの無いもので有った。彼女は医者の言葉をすら頼めないという語気で話した。
「尤《もっと》も、僅か一週間ばかりの故《せい》だとは言いますけれど……」と復た曾根は愁《うれ》わしげに言った。
「貴方《あなた》のはどういう病気なんですか」と三吉は尋ねて、歩きながら巻煙草《まきたばこ》に火を点《つ》けた。
「我《わたくし》の持病です」と曾根は答えた。
暫時《しばらく》二人は黙って歩いた。目映《まぶ》しい日の光は城跡の草の上に落ちていた。
「あんまり考え過ぎるんでしょう」
と三吉は嘲《あざけ》るように笑って、やがて連の人達に追付いた。
城門を出たところで、曾根は二人の婦人と一緒に世話に成った礼を述べた。鉄道草の生《お》い茂った踏切のところを越して、岡の蔭へ出ると、砂まじりの道がある。そこで曾根は三吉に別れて、疲れた足を停車場の方へ運んだ。
「曾根さんも相変らずの調子だナア」
こう三吉は口の中で言ってみて、家を指して帰って行った。
お雪は屋外《そと》に出して置いた張物板を取込んでいた。そこへ夫が帰って来た。曾根のことは二人の話に上った。
「真実《ほんと》に、曾根さんはお若いんですねえ……」とお雪は乾いた張物を集めながら言った。
「女の年齢《とし》というものは分らんものサ」と三吉も入口の庭に立って、「俺《おれ》は二十五六だろうと思うんだ」
「まさか。あんなにお若くって――二十二三位にしか見えないんですもの」
「独身《ひとり》でいるものは何時までもああサ」
「それに、あんなに派手にしていらっしゃるんですもの」
「そうさナア。あの人にはああいう物は似合わない」
「紫と白の荒い縞《しま》の帯なぞをしめて……あんな若い服装《なり》をして……」
「あの人のはツクルと不可《いけない》。洒瀟《さっぱり》とした平素《ふだん》の服装《なり》の方が可い。縮緬《ちりめん》の三枚重かなんかで撮《と》った写真を見たが、腰から下なぞは見られたものじゃなかった。なにしろ、ああいう気紛《きまぐ》れな人だから、種々な服装をしてみるんだろうよ……ある婦人《おんな》があの人を評した言葉が好い、他《ひと》が右と言えば左、他が白いと言えば黒いッて言うような人だトサ」
「悧好《りこう》そうな方ですねえ。私もああいう悧好な人に成ってみたい――一日でも可いから……ああ、ああ、私の気が利かないのは性分だ……私はその事ばかし考えているんですけれど……」
こう言って、お雪は萎《しお》れた。
直樹とお福とは部屋の方で無心に口笛を吹きかわしていた。
その晩、三吉は直樹やお福を集めて、冷《すず》しい風の来るところで話相手に成った。
「さあ、三人でかわりばんこに一ツずつ話そうじゃ有りませんか」と直樹が言出した。「私が話したらば、その次にお福さん、それから兄さん」
「それじゃ泥棒廻りだわ」とお福が混反《まぜかえ》す。
「そんなら、兄さんから貴方」
「私は出来ません。話すことが無いんですもの」
こう若い人達が楽しそうに言い争った。雑談は何時の間にか骨牌《トランプ》の遊に変った。
「姉さんもお入りなさいよ」と直樹はお雪の方を見て勧めるように言った。
「私は止《よ》します」とお雪は子供の傍で横に成る。
「何故《なぜ》?」と直樹はツマラなさそうに。
「今夜は何だか心地《こころもち》が悪いんですもの――」と言って、お雪は小さな手をシャブっている子供の顔を眺めた。
無邪気な学生時代を思わせるような笑声が起った。「ああ、ツライなあ、運が悪いなあ」などと戯れて、直樹が手に持った札を数える若々しい声を聞くと、何時もお雪は噴飯《ふきだ》さずにいられないのであるが、その晩は一緒に遊ぼうともしなかった。急にお房は反返《そりかえ》って、鼻を鳴らしたり、足で蹴《け》ったりした。お雪は肥え太った子供の首のあたりへ線香の粉にしたのを付けた。お房は怒って、泣いた。乳房を咬《くわ》えさせて、お雪は沈んで了った。
田舎《いなか》の盆過に、復た曾根は三吉の家を訪ねた。その時は一人でやって来た。水車の音も都会の人にはめずらしかった。暫時《しばらく》彼女は家の門口に立って、垣根のところから南瓜の生《な》り下ったような侘《わび》しい棲居《すまい》のさまを眺めた。
お雪は裏の柿の樹の下へ洗濯《せんたく》物が乾いたかを見に出た。直樹は遊びに出て居なかった。
「曾根さん――」
とお雪は女の客を見つけて、直に家の内へ案内した。
寂しくている三吉も喜んで迎えた。曾根が一人で訪ねて来たということは、ある目に見えない混雑を三吉の家の内へ持来《もちきた》した。曾根は、戸の間隙《すきま》からでも入って来て、何時の間にか三吉の前に坐っている人のようであった。
「お雪、鮨《すし》でも取りにやっておくれ。それから、お前も話しに来るが可い」と三吉は妻の居る処へ来て言った。
「私なんか……」とお雪はすねる。
「そう言うものじゃないよ。ああいう人の話も聞くものだよ」
こう言って置いて、三吉は客の方へ戻った。
庭に咲いた松葉|牡丹《ぼたん》、凌霄葉蘭《のうぜんはらん》などの花の見える奥の部屋で、三吉は大きな机の上へ煙草盆を載せた。音楽や文学の話が始まった。蜂《はち》と蟻《あり》と蜘蛛《くも》の生活に関する話なども出た。
「こういう田舎で御座いますから、何にも御構い申すことが出来ません」
とお雪は、子供を抱きながら、取寄せたものを持運んで来た。
「まあ、房《ふう》ちゃんで御座いますか」
と曾根は可懐《なつか》しげに言って、お雪の手から子供を借りて抱いてみた。膝《ひざ》の上に載せて、頬《ほお》を推当《おしあ》てるようにもしてみた。お房は見慣れない他《よそ》の叔母《おば》さんを恐れたか、声を揚げて泣叫ぶ。土産《みやげ》にと用意して来た翫具《おもちゃ》を曾根が取出して、それを見せても、聞入れない。お雪はこの光景《ありさま》を見ていたが、やがてお房を抱取って、炉辺の方へ行って了った。
暫時《しばらく》、曾根は耳を澄まして、お房の泣声を聞いていた。
「昨晩は――私は眠られ
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