二人|洋傘《こうもり》を持って写したもので、顔のところだけ掻※[#「※」は「てへん+劣」、第3水準1−84−77、83−1]《かきむし》って取ったのもあった。
 三吉の方の写真も出て来た。お雪は妹に指して見せて、この帽子を横に冠ったのは三吉が東京へ出たばかりの時、その横に前垂を掛けているのが宗蔵、中央《まんなか》に腰掛けて帽子を冠っている少年が橋本の正太、これが達雄、これが実、後に襟巻《えりまき》をして立ったのが森彦などと話して聞かせた。
「どうです、この兄さんは可愛らしいでしょう」
 と三吉もそこへ来て、自分がまだ少年の頃、郷里《くに》から出て来た幼友達と浅草の公園で撮ったという古い写真を出して、お福に見せた。
「まあ、これが兄さん?」とお福は眺めて、「これは可愛らしいが、何だか其方《そっち》はコワいようねえ」
 お雪も笑った。お福がコワいようだと言ったは、三吉の学校を卒業する頃の写真で、熟《じっ》と物を視《み》つめたような眼付に撮れていた。
 お雪が持って来た写真の中には、女の友達ばかりでなく、男の知人《しりびと》から貰ったのも有った。名だけ三吉も聞いたことの有る人のもあり、全く知らない青年の面影《おもかげ》もあった。
「勉さんねえ」
 とお福は名倉の店に勤めている人のを幾枚か取出して眺めた。


「福ちゃん」
 とお雪は妹を呼んだ。返事が無かった。お福はよく上《あが》り端《はな》の壁の側や物置部屋の風通しの好いところを択《えら》んで、独《ひと》りで読書《よみかき》するという風であったが、何処《どこ》にも姿が見えなかった。
「福ちゃん」
 と復《ま》たお雪は呼んで探してみた。
 南向の部屋の外は垣根に近い濡縁《ぬれえん》で、そこから別に囲われた畠の方が見える。深い桑の葉の蔭に成って、妹の居る処は分らなかったが、返事だけは聞える。
 お雪は入口の庭から裏の方へ廻って、生い茂った桑畠の間を通って、莢豌豆《さやえんどう》の花の垂れたところへ出た。高い枯枝に纏《まと》い着いた蔓《つる》からは、青々とした莢が最早《もう》沢山に下っていた。
「福ちゃん、福ちゃんッて、探してるのに――そんなところに居たの」こうお雪が声を掛けた。
 お福は畠の間から姉の方を見て、「今ね――一寸《ちょっと》裏へ出て見たら、あんまり好く生《な》ってるもんだから。すこし取って行って進《あ》げようと思って」
「そう……好く生ったことね」と言ってお雪も摘取りながら、「福ちゃん、此頃《こないだ》姉さんと約束したもの……あれを書いておくれナ。母親《おっか》さんの許《ところ》へ手紙を出すんだから――」
「姉さん、そんなに急がなくたって可《い》いわ」
「だって、どうせ出す序《ついで》だもの」
「それもそうね」と言ってお福は姉の傍へ寄った。
 妹は自分で摘取った莢を姉の前垂の中へあけて、やがて畠を出て行った。お雪はそこに残っていた。
 桑の葉を押分けて、復たお雪が入口の庭の方へ戻って行った頃は、未だ妹は引込んで書いていた。お雪は炉辺の食卓の上に豆の莢を置いて、一つずつその両端を摘切った。
 お福は下書を持って静かな物置部屋の方から出て来た。
「姉さん、これで可《よ》くッて?」とお福は書いたものを姉に見せて言った。
「もうすこし丁寧にお書きな」とお雪が言った。
「だって、どう書いて好いか解らないんですもの」と妹は首を傾《かし》げて、娘らしい微笑《えみ》を見せた。
 お福は姉の勧めに従って、勉と結婚することを堅く約束する、それを楽みにして卒業の日を待つ、という意味を認《したた》めて、お雪に渡した。お雪は名倉の母へ宛《あ》てた手紙の中へこの妹に書かせたものを同封して送ることにした。
 名倉の母からは、お福が行って世話に成るという手紙と一緒に、菓子の入った小包が届いた。遠く離れた母の手紙を読むことは、お雪に取って何よりの楽みであった。お雪はその返事を書いたのである。序に妹のことをも書き加えたのである。
 お雪の許へ宛てて勉からは度々《たびたび》文通が有る。復たお雪は受取った。彼女は勉から来る手紙の置場所に困った。


 ある日、三吉は勉からお雪へ宛てた手紙を他の郵便と一緒に受取った。
「勉さんからはよく手紙が来るネ」
 こう三吉はお雪を呼んで言って、何気なくその手紙を妻の手に渡した。
 どういう事柄が書かれてあるにもせよ、それを聞こうともしなかった程、三吉は人の心を頼んでいた。こういう文通の意味を略《ほぼ》彼も想像しないではなかった。しかし、それに驚かされる年頃でもなかった。彼は、自分が種々なところを通り越して来たように、妻もまた種々なところを通り越して、そして嫁《かたづ》いて来たものと思っていた。お雪も最早二十二に成る。こうして種々な手紙が新しい家まで舞込んで来るのは、別に三吉には不思議でもなかった。唯、妻が自己《おのれ》の周囲《まわり》を見過《みあやま》らないで、従順《すなお》に働いてくれさえすればそれで可い、こう思った。彼には心を労しなければ成らないことが他に沢山有った。
 畠の野菜にもそれぞれ手入をすべき時節であった。三吉は鍬《くわ》を携えて、成長した葱《ねぎ》などを見に行った。百姓の言葉でいう「サク」は最早何度かくれた。見廻る度に延びている葱の根元へは更に深く土を掛けて、それから馬鈴薯の手入を始めた。土を掘ってみると、可成《かなり》大きな可愛らしいやつが幾個《いくつ》となく出て来た。
「ホウ、ホウ」
 と三吉は喜んで眺《なが》めた。
 裏の流で取れただけの馬鈴薯を洗って、三吉は台所の方へ持って行って見せた。お雪もめずらしそうに眺めた。新薯は塩茹《しおゆで》にして、食卓の上に置かれた。家のものはその周囲《まわり》に集って、自分達の手で造ったものを楽しそうに食ったり、茶を飲んだりした。
 その晩、三吉はお福や書生を奥の部屋へ呼んで、骨牌《トランプ》の相手に成った。黄ばんだ洋燈《ランプ》の光は女王だの兵卒だのの像を面白そうに映して見せた。お福はよく勝つ方で、兄や若い書生には負けずに争った。お雪も暫時《しばらく》仲間入をしたが、やがてすこし頭が痛いと言って、その席を離れた。
 炉辺《ろばた》の洋燈は寂しそうに照していた。何となくお雪は身体が倦《だる》くもあった。毎月あるべき筈《はず》のものも無かった。尤《もっと》も、さ程気に留めてはいなかったので、炉辺で独《ひと》り横に成ってみた。
 奥の部屋では楽しい笑声が起った。一勝負済んだと見えた。復た骨牌が始まった。頭の軽い痛みも忘れた頃、お雪は食卓の上に巻紙を展《ひろ》げた。彼女は勉への返事を書いた。つい家のことに追われて、いそがしく日を送っている……この頃の御無沙汰《ごぶさた》も心よりする訳では無いと書いた。妹との結婚を承諾してくれて、自分も嬉しく思うと書いた。恋しき勉様へ……絶望の雪子より、と書いた。


 この返事をお雪は翌日《あくるひ》まで出さずに置いた。折を見て、封筒の宛名だけ認《したた》めて、肩に先方《さき》から指してよこした町名番地を書いた。表面《おもて》だって交換《とりか》わす手紙では無かったからで。お雪は封筒の裏に自分の名も書かずに置いた。箪笥《たんす》の上にそれを置いたまま、妹を連れて、鉄道の踏切からずっとまだ向の崖下《がけした》にある温泉へ入浴《はいり》に行った。
 ふと、この裏の白い手紙が三吉の目に着いた。不思議に思って、開けてみた。一度読んだ。気を沈着《おちつ》けて繰返してみた。彼は自分で抑えることもどうすることも出来ない力のままに動いた。知らないでいる間は格別、一度こういう物が眼に触れた以上は、事の真相を突留めずにいられなかったのである。つと箪笥の引出を開けてみた。針箱も探してみた。櫛箱《くしばこ》の髢《かもじ》まで掻廻《かきまわ》してみた。台所の方へも行ってみた。暗い入口の隅《すみ》には、空いた炭俵の中へ紙屑《かみくず》を溜《た》めるようにしてあった。三吉は裏口の柿の樹の下へその炭俵をあけた。隣の人に見られはせぬか、女連《おんなれん》は最早《もう》帰りはせぬか、と周囲《あたり》を見廻したり、震えたりした。
 勉が手紙の片《きれ》はその中から出て来た。その時、三吉はこの人の熱い情を読んだ。若々しい、心の好さそうな、そして気の利《き》いた勉の人となりまでも略《ほぼ》想像された。温泉に行った人達の帰りは近づいたらしく思われた。読んだ手紙は元の通りにして、妻が帰って来て見ても、ちゃんと箪笥の上に在《あ》るようにして置いた。
 お雪とお福の二人は洋傘《こうもり》を持って入って来た。お雪は温泉場の前に展《ひら》けた林檎畠《りんごばたけ》、青々と続いた田、谷の向に見える村落、それから山々の眺望の好かったことなどを、妹と語り合って、復た洗濯物を取込むやら、夕飯の仕度に掛るやらした。
 やがて家のものは食卓の周囲《まわり》に集った。お雪は三吉と相対《さしむかい》に坐って、楽しそうに笑いながら食った。彼女の眼は柔順と満足とで輝いていた。時々三吉は妻の顔を眺めたが、すこしも変った様子は無かった。三吉は平素《いつも》のように食えなかった。


 一夜眠らずに三吉は考えた。翌日《あくるひ》に成ってみると、お雪や勉が交換《とりかわ》した言葉で眼に触れただけのものは暗記《そらん》じて了った程、彼の心は傷《いた》み易《やす》く成っていた。家を出て、夕方にボンヤリ帰って来た。
 夫の好きな新しい野菜を料理して、帰りを待っていたお雪は、家のものを蒐《あつ》めて夕飯にしようとした。土地で「雪割《ゆきわれ》」と称《とな》えるは、莢豌豆《さやえんどう》のことで、その実の入った豆を豚の脂《あぶら》でいためて、それにお雪は塩を添えたものを別に夫の皿へつけた。彼女は夫の喜ぶ顔を見たいと思った。
「頂戴《ちょうだい》」
 とお福や書生は食い始めた。三吉は悪い顔色をして、折角お雪が用意したものを味おうともしなかった。
「今日は碌《ろく》に召上らないじゃ有りませんか……」
 と言って、お雪は萎《しお》れた。
 その晩、三吉は遅くまで机に対って、書籍《ほん》を開けて見たが、彼が探そうと思うようなものは見当らなかった。復た夜通し考え続けた。名倉の母へ手紙でも書こうか、お雪の親しい友達に相談しようか、と思い迷った。
 錯乱した頭脳《あたま》は二晩ばかり眠らなかった為に、余計に疲れた。彼はお雪と勉の愛を心にあわれにも思った。ブラリと家を出て、復た日の暮れる頃まで彷徨《うろつ》いた三吉は、離縁という思想《かんがえ》を持って帰って来た。もし出来ることなら、自分が改めて媒妁《ばいしゃく》の労を執って、二人を添わせるように尽力しよう、こんなことまで考えて来た。
 家出――漂泊――死――過去ったことは三吉の胸の中を往《い》ったり来たりした。「自分は未だ若い――この世の中には自分の知らないことが沢山ある」この思想《かんがえ》から、一度破って出た旧《ふる》い家へ死すべき生命《いのち》も捨てずに戻って来た。その時から彼はこの世の艱難《かんなん》を進んで嘗《な》めようとした。艱難は直に来た。兄の入獄、家の破産、姉の病気、母の死……彼は知らなくても可いようなことばかり知った。一縷《いちる》の望は新しい家にあった。そこで自分は自分だけの生涯を開こうと思った。東京を発《た》つ時、稲垣が世帯持の話をして、「面白いのは百日ばかりの間ですよ」と言って聞かせたが、丁度その百日に成るか成らないかの頃、最早自分の家を壊そうとは三吉も思いがけなかった。
 倒死《のたれじに》するとも帰るなと堅く言ってよこしたという名倉の父の家へ、果してお雪が帰り得るであろうか。それすら疑問であった。お雪は既に入籍したものである。法律上の解釈は自分等の離縁を認めるであろうか。それも覚束《おぼつか》なかった。三吉はある町に住む弁護士の智慧《ちえ》を借りようかとまで迷った。蚊屋《かや》の内へ入って考えた。夏の夜は短かかった。


 三吉は家を出た。彼の足は往時《むかし》自分の先生であったという学校の校長の住居《
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