い」と稲垣も言った。「実は吾家《うち》でもその事で気を揉《も》んでいました。それから式へ出るのは、私だけにして下さい。簡単。簡単。皆な揃《そろ》って押出すのは、大に儲《もう》けた時のことにしましょう――ねえ、姉さん」
「真実《ほんと》に、そうですよ」とお倉は微笑《ほほえ》んで、「私なんか出たくも、碌《ろく》な紋付も持たない」
「まあ、姉さんのように仰《おっしゃ》るものじゃ有りません」と言って、稲垣は手を振って、「出たいと思えば、何程《いくら》でも出る方法は有りますがね――隣の娘なんか借着で見合をしましたあね、御覧なさい、それをまた損料で貸して歩く女も居る――そういう世の中ですけれど、時節というものも有りますからね」
「簡単。簡単」と実も力を入れて命令するように言った。
 稲垣は使に出て行った。料理屋へは打合せに行く、三吉の方へは電報を打つ、この人も多忙《いそが》しい思いをした。その電報が行くと直ぐ三吉も出て来る手筈《てはず》に成っていた。
「宗蔵は暫時《しばらく》稲垣さんの方へ行っておれや」
 と兄に言われて、宗蔵も不承々々に自分の部屋を離れた。彼は、不自由な脚《あし》を引摺《ひきず》
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