ら、稲垣さんにもそう言って置きましたが――銀行に預けて有りますからね」
「そう言って頂けば私も難有《ありがた》いんですけれど……でも、何んとか前途《さき》の明りが見えないことには……何処まで行けばこの事業《しごと》が物に成るものやら……」と言って、細君は不安な眼付をして、「私がこんなことを言いに来たなんて、吾夫に知れようものなら、それこそ大叱責《おおしかられ》――殿方と違って女というものはとかくこういうことが気に成るもんですよ」
稲垣の細君は実の機嫌を損《そこ》ねまいとして、そう煩《うるさ》くは言わなかった。お俊の噂、自分の娘のことなどを少し言って、やがてお倉の居る方へ起《た》って行った。
実の机の上には、水引を掛けるばかりにした祝の品だの、奉書に認《したた》めた書付だのが置いてあった。兄は先方へ贈るように用意した結納《ゆいのう》の印を開けて弟に見せた。
「どうだ――大島先生から届けて貰うようにと思って、こういう帯地を見立てて来た――繻珍《しゅちん》だ」
「こんな物でなくっても可かったでしょうに」と三吉は言ってみた。
「兄貴が附いてて、これ位のことが出来ないでどうする――俺の体面に
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