姉は夏梨の棚の下に立って、弟の方を顧みながら、「この節は毎朝早く起きて、こうして畠の上の方まで見て廻る。一頃とは大違いで、床に就くようなことは無くなった――私も強くなったぞや」
「姉さんは何処《どこ》か悪かったんですか」と三吉は不審《いぶかし》そうに。
「ええ、持病で寝たり起きたりしてサ……」
「持病とは?」
 姉は返事に窮《こま》って、急に思い付いたように歩き出した。「まあ、病気の話なぞは止そう。それよりか私が丹精した畠でもお前さんに見て貰おう。御蔭で今年は野菜も好く出来ましたよ」


 野菜畠を見せたいというお種の後に随《つ》いて、弟も一緒に傾斜を上った。坂の途中を横に折れると、百合、豆などの種類が好く整理して植付けてある。青い暗い南瓜《かぼちゃ》棚の下を通って、二人は百姓の隠居の働いているところへ出た。
 石垣《いしがき》に近く、花園を歩むような楽しい小径《こみち》もあった。そこから谷底の町の一部を下瞰《みおろ》すことが出来る。
 お種は眺め入りながら、
「私も、橋本へ来てからこの歳に成るまで、町へ出たことが無いと言っても可《い》い位……真実《ほんとう》に家《うち》の内《なか》
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