坪庭に向いた二間ばかりの表座敷がその隣にある。
三吉は眺め廻して、「心地《こころもち》の好い部屋だ――どうしても田舎の普請は違いますナア」
「ここをお前さん達に貸すわい」と姉が言った。「書籍《ほん》を読もうと、寝転《ねころ》ぼうと、どうなりと御勝手だ」
「姉さん、東京からこういうところへ来ると、夏のような気はしませんね」
「平素《ふだん》はこの部屋は空《あ》いてる。お客でもするとか、馬市でも立つとか、何か特別の場合でなければ使用《つか》わない。お前さんと、直樹さんと、正太と、三人ここに寝かそう」
「ア――木曾川の音がよく聞える」
三吉は耳を澄まして聞いた。
間もなくお種は弟を連れて、店先の庭の方へ降りた。正太が余暇に造ったという養鶏所だの、桑畠だのを見て、一廻りして裏口のところへ出ると、傾斜は幾層かの畠に成っている。そこから小山の上の方の耕された地所までも見上げることが出来る。
二人は石段を上った。掩《おお》い冠さったような葡萄棚《ぶどうだな》の下には、清水が溢《あふ》れ流れている。その横にある高い土蔵の壁は日をうけて白く光っている。百合《ゆり》の花の香《におい》もして来る。
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